皆川 広照(みながわ ひろてる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下野皆川城主。下野皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主。皆川俊宗の次男。水谷正村は伯父にあたる。処世術に優れており、小大名ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの権力者の間を渡り歩き、見事に江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人である事から茶道をはじめ、文化的にも造詣が深かった人物と推測される。家臣や民を愛し、寺社仏閣をも愛した名君であった。天文17年(1548年)下野国皆川城主皆川俊宗の次男として誕生する。幼い頃に皆川城の鬼門を守る、皆川持明院で修行をしたといわれている。当時、関東は越後の上杉謙信、相模の後北条氏ら大大名の勢力の真っ只中にあり、皆川家ら小大名は上杉氏、後北条氏と大大名に従ったりときに離反したりして生き残りを図ろうとしていた。皆川家も例外ではなく、1561年、皆川俊宗は皆川家の支城である太平山城に立ち寄った上杉謙信を接待するために、広照を接待役に任命している。俊宗は長男である皆川広勝よりも次男である広照に愛情を注いだ。広照は父、俊宗と共に1563年の川連城攻略、1564年の榎本城攻略に参陣。また、俊宗が1572年正月、北条氏政、那須資胤と連携し、主家である宇都宮氏の居城宇都宮城を占領した際、宇都宮広綱の幽閉を広照に命じている。これらの経験が後に広照が乱世を生き残るための原動力となったことは言うまでもない。皆川俊宗が1573年、北条氏政と戦い関宿で上杉方として討死すると、兄広勝が当主となった。天正3年(1575年)広照は北条方として佐野氏の家臣である平野久国の守る粟野城を家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落としている。天正4年(1576年)に兄広勝が29歳で急死したことから家督を継いだ。天正5年(1578年)宇都宮方であった皆川家に北条氏が大軍を持って攻めたてたが、これを防いでいる。このとき、おそらく北条に従ったと思われる。同年、粟野城主であった佐野家臣、平野久国の軍勢が皆川城の支城である川連城に夜討ちを行った。この奇襲で川連城は炎上。城主であった川連仲重は討死したが、すぐさま皆川家が奪回している。この川連城の戦いで命を失った仲重の娘の悲しい秘話が今もなお、語り継がれている。(七ひろ蛙)(栃木市に残る民話より)天正6年(1579年)に北条氏が佐竹氏、宇都宮氏、那須氏、結城氏連合軍と下総国小川の原で対陣すると、広照は北条方として参陣した。両軍の対陣は2ヶ月にも及ぶが決着が付かず、両軍は退陣した。この戦い以来、北条氏の北関東攻略は一段落することになる。(江田郁夫『下野長沼氏』参照)この頃、広照は皆川城の東の支城である栃木城の拡張に着手。川連城下にあった圓通寺、常願寺などの寺社を相次いで移築させている。(各寺社の社伝より)広照は度重なる北条の侵攻に対抗し、乱世を生き残るために当時、勢力を拡大しつつある織田信長への接近を模索し始める。天正8年(1580年)、広照は 徳川家臣の中川忠保を使い、徳川家康への接近を試みた。天正9年(1581年)中央政権と関わることの多い紀州根来寺で修行していた広照の叔父の玄宥を道案内とし、家臣の関口石見守を安土城へ遣わした。取り次ぎは織田家臣、掘秀政が行った。念願叶い、織田信長に名馬三頭を送って誼を通じたのである。馬好きでもある信長は大変喜んだという。だが、当時の中央政権では皆川という名前は知名度が薄く、信長らが広照に出した書状は長沼や常陸国蜷川などと名前を間違えている。信長は関口石見守の帰還における安全担当として、家臣の滝川一益に命じ、東海道の安全を保障した。また、関口は帰還の折、浜松城の徳川家康と面会し、家康は広照が信長に近づいたことを祝福して広照との今後の交流も約束した。土産として宇治茶も贈っている。この信長と家康との出会いがこの後の彼の人生を変えていくことになった。(江田郁夫『下野長沼氏』参照)翌天正10年(1582年)に甲州征伐後、広照の念願叶って、関東に赴任した信長の家臣滝川一益に仕えた。上野国厩橋城を拠点とした滝川一益に広照をはじめ、宇都宮国綱、佐竹義重などの関東の反北条方領主は念願の生き残りの助け船として従う姿勢を見せたが、織田家は北条氏とも友好関係であったために、複雑な状況となった。信長の死後、北条氏は突如織田に反旗を翻し、滝川一益と神流川の戦いで戦い、織田家を破った。このとき、広照は佐野房綱、従兄弟の水谷勝俊らと共に一益に同行し、その流れで広照は家康と合流。武田氏遺領の信濃、甲斐をめぐって北条、徳川、上杉らが争った天正壬午の乱では、徳川方として広照も同陣し若神子の戦いで北条氏直と戦った。(江田郁夫『下野長沼氏』参照)こののち、徳川と北条が和議を結ぶ。これにより北条は南の危機を脱し、残る敵は北関東のみとなった。真田昌幸領を除いて上野国をほぼ手中に治めた北条氏による北関東侵攻は以前に比べて激化することになる。天正12年(1584年)、北条氏直が大軍を率いて皆川広照、宇都宮国綱、佐野宗綱、佐竹義重、結城晴朝ら反北条方領主連合と下野国沼尻(栃木県栃木市藤岡町)で対陣した。双方の対陣は110日にも及び、小競り合いはあったものの、大決戦には至らなかった。しかし、反北条方領主連合の陣営では鉄砲が大量に用意されるなど、一触即発の状態であったと思われる。なお、この戦いは同時期に行われた徳川家康と羽柴秀吉による小牧・長久手の戦いと関連しているとされ、北条は徳川と、反北条方領主連合は羽柴と関係を結び、戦況次第では互いに援軍に向かおうとしていたといわれる。しかし、広照は反北条方にも関わらず、徳川家康に何通か書状を送っており、友好関係は絶えていなかったと思われる。この戦いは約三ヶ月間にも及んだ。皆川広照は宇都宮方の退却口である岩舟山を守っていたものの、北条方に落とされたために、宇都宮方は劣勢にたたされた。それに加えて、連合している佐竹方も北条方による調略の混乱があった。しかし、小牧長久手の戦いが最終的に秀吉勝利の形で終結してしまい、徳川と関係を持つ北条方も劣勢となったため双方は和解となって終戦となった。(江田郁夫『下野長沼氏』参照)しかし、北条の勢いは収まることはなかった。反北条方の頼みの綱である羽柴秀吉が関東に軍をさしむけず、九州征伐に乗り出すと、北条方の北関東攻略はさらに激化した。反北条方である皆川城の皆川広照のまわりには小山城の北条氏照、唐沢山城の北条氏忠、壬生城、鹿沼城の義兄である壬生義雄など、北条方の勢力が増えていき、包囲される形となっていたのである。天正13年(1585年)、反北条方の皆川広照を討伐すべく、北条氏照が大軍を持って藤岡城に入城。皆川家の様子をうかがった。皆川広照勢は佐竹義重の援軍と共に支城の太平山城に陣を敷いて迎撃の構えを見せた。圧倒的な兵力差の中で、皆川方は得意戦法である霊峰太平連山をうまく使う山岳戦に持って行こうとしたのである。しかし北条方は広照の陣を敷く太平連山に突入し、太平山城の広照の陣を大軍を持って包囲。火矢を四方八方から放ち、太平山を炎上させた。「皆川正中録」によれば、このとき、北条方の放った火矢が太平山神社の本殿に燃え移ると、神鏡がとてつもない光を放ち、隣の山へ飛んで行ったという。この状況に双方は驚きあきれた。それ以来、北条が霊峰太平山の神々の怒りを買ったために滅んだという噂が皆川領周辺で囁かれたという。(皆川正中録)、(地元伝承より)この火災で太平山神社をはじめ、多数の寺社仏閣が焼け落ちたといわれている。広照は軍を後退させ、太平山の北の山である草倉山に陣を移した。この時から北条と皆川の百日にも及ぶ対陣が始まるのである。太平山を占領した北条勢は草倉山の皆川方面へ降りていき、度々ゲリラ戦が行われた。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとっては背水の陣であったのである。城中の女達は毎日のように祈りを捧げた。皆川城の麓にある観音堂の霊験であり、皆川氏が危機のときに現れ、援護すると伝えられる「霧」が戦場に立ち込めたという。初めは天然の山岳要害を上手く使い、優勢に戦った皆川勢だったが、数で勝る北条の猛勢の前に日に日に猛将、勇将、知将の皆川家臣が討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣性に追い込まれてしまった。その上、この合戦の隙をとられ、北条方である佐野氏によって皆川城北の支城の粟野城が落ちてしまったのである。もはや滅びる他道はないと皆川方の誰もが確信したとき、徳川家康、佐竹義宣の使者が広照の元に訪れ、北条に降伏することを薦めたという。(『皆川正中録』参照)(地元の伝承より)この降伏は徳川による関東惣無事令の一環であるとされている。こうして、皆川氏は北条氏の下に従った。この時、広照が家康や佐竹など当時秀吉側の勢力の薦めで北条に従ったことは何かしらの意味合いがあったのだと考えられる。この草倉山の戦いで皆川家臣の大半が討ち死に。それらの死者を葬った千人塚が現在も激戦の地、草倉山に残る。北条氏は自分に降った小大名たちに二度と寝返らせないために北条の女を嫁がせた。広照には既に妻(鶴子)がいたが、北条氏政の養女と結婚することになったのである。皆川氏が北条に従ったことで、反北条方の宇都宮氏、佐竹氏にとって脅威となった。天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐の時、家康に投降して所領を安堵された。慶長6年(1601年)正月、従四位下に叙位された(村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、P126)。飯山藩主(4万石)の時、幼少期より養育していた家康の六男松平忠輝の守役・御附家老となって忠輝の補佐役を務めたが、慶長14年(1609年)いくら諫言しても改めない忠輝の行状を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格と言われ改易されてしまった。しかし、元和9年(1623年)に赦免され、常陸府中で1万石を与えられた。寛永2年(1625年)に嫡男の隆庸に家督を譲って隠居し、2年後に80歳で没した。
出典:wikipedia
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