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琴平参宮電鉄

琴平参宮電鉄株式会社(ことひらさんぐうでんてつ、通称琴参バス(ことさんばす)、英訳名"Kotosan Corporation")は、香川県西部で路線バスを運行していた事業者。かつては近鉄グループに属し、近畿日本鉄道が発行済株式の33.3%を保有する筆頭株主で同社の持分法適用会社であったが、2006年1月31日に近畿日本鉄道が保有株をすべて手放し、近鉄グループから外れた。かつては鉄軌道事業を営んでいたが、1963年に廃止した。以来バスのみの営業となったが、2009年に経営悪化のため整理回収機構の主導の下で新旧分離方式による事業継続を図るため、バス事業を琴参バスに移管し(詳細な経緯はバス事業の分離にて解説)、会社解散した。香川県では電車の開業は東部の高松において1911年に開通したのに対し、西部の丸亀では計画から電車の開通まで20年を要した。讃岐電気軌道が最初に軌道敷設の出願をしたのが1904年7月6日、1906年11月になると馬越恭平他60名が発起人となり軌道敷設(経由地丸亀、坂出、高松、志度)の出願をしたのでこれと合同することとなったが出願は却下されてしまった。次に1909年2月1日丸亀 - 善通寺間に変更して出願。ようやく1910年5月20日特許が下付された。1911年9月に軌道の敷設権が堺市の才賀電機商会支配人野田儀一郎に移譲されまた会主の才賀藤吉も取締役に就任している。そして大阪市東区今橋に本社を構えることとなり、用地買収、軌条などの搬入がはじめられた。ところが1912年才賀電機商会は破綻し、1915年に三重県の竹内文平、1917年高知県の江渕喜三、1920年広島県の桑田公太郎と次々に敷設権が移譲されていき開業の目処はたたなくなった。その後この休眠会社の権利を1921年12月に才賀電機商会破綻後独立し、日本工業所という電気事業請負の会社を設立していた野田儀一郎が買収し、1922年6月に会社と請負契約を締結した。そして丸亀市通町に事務所を開き、また琴平への延長の特許が下付されたので琴平参宮電鉄と改称した。昭和恐慌、琴平急行電鉄の開通により乗客数は伸び悩んだ。1930年以降経営不振により1927年発行の社債2,300,000円(償還満期1932年12月)について1931年6月の利子払いが不能となる。1932年11月に社債権者集会を開き1933年12月(のちに1935年12月)まで償還猶予すること。以降適宜償還することとなった。社名が示すように、かつては坂出市・丸亀市・多度津町と善通寺・琴平を結ぶ鉄軌道路線を運行していた。鉄道線である多度津線・坂出線と、軌道線である丸亀線・琴平線があったが、車両や運行系統は全路線共通で、路面電車型の車両を使用していた。琴平側の終着駅である琴参琴平駅は、阿波池田方面への延長のため移転した土讃線琴平駅の旧駅跡を使って建てられた。全線が国鉄予讃本線・土讃本線に並行していたが、当時の国鉄路線は長距離輸送中心で運行頻度も少なかったため、ある程度の棲み分けができていた。戦前には女性の「サービス・ガイド・ガール」を電車に添乗させて観光案内をおこなっていた。しかし、戦後になってモータリゼーションが進展したことや、本州から香川県へのルートにおいて高松港に発着する宇高連絡船に対して丸亀港・多度津港の地位が低下したことから乗客が減少し、1963年に廃止された。一部の車両(モハ180型)は廃止後、仙台市交通局に譲渡されて、仙台市電180型として1974年まで使われた。多度津線・琴平線・坂出線の専用軌道区間は、廃線後に跡地が道路に転用された(坂出線は一部)。路線は讃岐平野に敷設されたが、多度津線には多度津町内と善通寺市内の2箇所にトンネルがあった。いずれも廃止後は道路トンネルに転用されている。かつて坂出線には坂出町から下笠居を経て高松五番町へ至る延伸計画が存在したが、1958年に坂出町 - 下笠居間の軌道敷設特許および下笠居 - 高松五番町間の地方鉄道敷設免許が取消となった。先述のように、戦時中に休止された琴平急行電鉄を吸収合併し、同社の路線を保有していたが、同線については引き継いだ後に営業再開されることなく廃止されたため、ここでは述べない。琴平急行電鉄の路線については「琴平急行電鉄線」の項目を参照のこと。以下は廃止直前のデータ。以下は廃止直前のデータ。太字は自社路線同士の接続駅。琴参琴平駅があった場所に温泉旅館のことひら温泉琴参閣がある。呼称は廃止当時のもの。2008年12月11日の報道で、経営悪化のためさぬき市に本社を置く同業の大川自動車に事業譲渡することが明らかになった。バス事業は利用者の減少で赤字が続いており、それを不動産賃貸で補ってきたが、不動産事業での借入金が重荷になっていた上、同年に保有物件に入居していた大型スーパーのフジグラン丸亀中府が撤退したことなどもあり、以後の見通しが立たなくなったことからこの措置となった。バス事業を新会社「琴参バス株式会社」に移管し、同社の全株式を2009年3月31日に大川自動車に譲渡する形が採られた。路線は維持され、従業員も一部を除き引き継がれた。琴平参宮電鉄と琴参バスとの間に資本関係はなくなったものの、琴平参宮電鉄の解散まで両社の役員を兼任していた人物が1名いたため人的関連は残っていた。大川自動車が琴参バスを引き取ったのは、琴参の路線が県外資本に渡ることを阻止するためであった。事業譲渡後については「琴参バス」を参照のこと。現在、高速バス運行はしていない。トリトン号→さぬきエクスプレス横浜号四国高速バスが運行する路線の高速バス乗車券の予約・発券を委託されていたが、2008年11月30日をもって中止した。事業継承時点での路線については琴参バス#路線の項目を参照のこと。高松線はすでに廃止されているが、丸亀競艇場への送迎バス(現在は坂出駅以東は運行されていない)の停留所としてポールは事業譲渡まで残されていた。また、香川県道33号高松善通寺線(旧11号線)の片側2車線区間の下り線に残る琴参型の電照式ポールは共同使用していたことでんバスが現在も使用している。高松側のターミナルであった「高松駅前」バス停(日本生命高松駅前ビルの前にある)は、以前は高松駅前バスターミナルに入る同ターミナル始発の高速バスの待機所となっていたが、高速バスターミナルの移転によって高速バスの経路が変わり、同所を通らなくなったため、移転後は待機所としても利用していない。かつては国分寺町(現・高松市)、多度津町、仲南町(現・まんのう町)、詫間町・高瀬町・仁尾町・財田町・山本町(いずれも現・三豊市)、大野原町・豊浜町(いずれも現・観音寺市)、観音寺市にも路線(詫間線 詫間駅前-須田-大浜-生里・飛谷/麻線 琴平営業所-高瀬駅前-国立西香川病院/鳥坂線 丸亀通町-高瀬駅前通り-観音寺営業所/山本線 琴平営業所-山本町-観音寺営業所/粟井線 観音寺営業所-上出-丸井/五郷線 観音寺営業所-残水-五郷渓/豊浜線 観音寺営業所-三豊総合病院前-関谷東/観音寺港線 観音寺港-中洲町-観音寺駅前)があったが、現在はなくなっている。車体後部の社名表記は琴参バスへの移管以前から「琴參バス」(「参」が旧字体)であった。

出典:wikipedia

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