斯波 義将(しば よしゆき)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。正平5年(1350年)、斯波高経の4男として誕生する。父・高経の偏愛を受け、正平15年(1360年)には11歳で元服し、従五位下治部大輔に叙された。この頃の幕府では、2代将軍足利義詮を補佐する執事(管領)であった細川清氏が康安の政変で失脚し、南朝に属して京都に侵攻したため幕府は討伐を行い、執事職は空席となっていた。正平17年(1362年)、13歳の義将は父・高経や斯波氏の縁戚であった有力守護の佐々木道誉の推薦で執事となり(但し道誉自身は婿にあたる義将の兄・氏頼を推した)、越前の他に越中の守護職を与えられた。義将が幼少のため実際は父が後見人として幕政を指揮するが、高経の独裁的・強権的な政治は諸侯や寺社の強い反発を受けた。このため正平21年(1366年)8月に起こった貞治の変において細川頼之と結んだ道誉などのため失脚して越前に逼塞する。この後、後任の管領には道誉らに推薦され頼之が就任し、細川氏との因縁は残された。やがて正平22年(1367年)に父が失意の中没すると、まもなく義将は幕府より赦免され、再び越中守護に補任された。越中守護に再任した義将は、長年にわたって同国に勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護)兄弟の討伐を推し進めていく事になる。桃井兄弟は建武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利直義・直冬の強力な与党として、幾度となく幕府を苦しめた猛将と知られていた。これに対して義将は越中・能登等の北陸勢を率いて桃井軍に挑み、正平24年(1369年)10月には直常の篭る松倉城を攻略した。落ち延びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年(1370年)に婦負郡長沢において決戦を挑んだが、この合戦で義将は直常の子直和を敗死させるなど大勝利を手にした。敗れた桃井一族は、南朝勢力や飛騨の姉小路氏の支援を受けてなおも抵抗を試みるものの、建徳2年(1371年)の五位荘の合戦で吉見氏などに敗れた以降は斯波氏に駆逐され、ここに越中は幕府軍に完全に制圧された。困難と思われた越中平定と桃井追討を成し遂げた義将は諸侯中でもその名声を高め、その後は義詮正室で同族でもある渋川幸子に接近してこれと結ぶなど幕府内での基盤を着実に固めていく。この頃、幕政を主導していたのは若い3代将軍足利義満を補佐していた細川頼之であったが、義将は守護国である越中や、越前国内の所領において国人と守護代との騒動などから頼之と対立することもあり、貞治の変以来の因縁もあったために反頼之派の旗頭となっていく。この勢力には道誉の没後に頼之と不和になった京極高秀(道誉の子)も加わり、次第にその勢力を拡大させていった。天授5年(1379年)、ついに義将は高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合し、兵を用いて将軍邸である花の御所を包囲するに至った。義将は義満に迫って頼之の罷免を求め、頼之を解任させて自身が管領に任じられるクーデターに成功する。これを康暦の政変という。罷免された頼之は自邸を焼いて領国のある四国へ落ち延び、ちょうど貞治年間の義将と逆の形となった。幕府の管領に返り咲いた義将は、管領と政所の機構を整備して権限を強化、春屋妙葩を僧録に任命して禅僧の統括を図るなどよく義満を補佐し室町幕府の安定に力をつくした。また斯波氏としても建武以来の領国であった越前を取り戻し(越中を畠山基国と交換)、義将の弟・義種が加賀の守護に任じられ、弘和2年(1382年)12月には従四位下左兵衛督に昇進するなど幕府内で勢力を拡げていったが、頼之の領国伊予を没収し河野通堯に与えてこれを討伐しようとした計画は、通堯が返り討ちに遭ったことや、義満がこれ以上の細川氏への刺激を抑えたことによって失敗に終わった。やがて義満の将軍権威が確立して主導的な執政が行われはじめ、元中6年(1389年)に頼之が赦免されると、義将の政治的立場は微妙なものになり、元中8年(1391年)には義将は管領を辞し、領国の越前へ帰国した。この後代わって頼之の弟で養子の細川頼元が管領となった。しかし頼之が元中9年(1392年)に没すると再び幕政に参与し、翌明徳4年(1393年)6月からは三度管領に就るなど、義将は生涯において執事・管領職を5回、延べ18年にわたって幕政を主導した。九州探題の今川貞世(了俊)の解任にも関与しているとされる。将軍義満が出家すると追従して出家し道将と号して、家督を子の義重に譲った。応永2年(1395年)7月25日、正四位下右衛門督に昇る。それまで衛門府の督は平家の公達や、鎌倉将軍の源頼家等を除いて武家に任官された例が無かったため、関白一条経嗣はその日記『荒暦』において「武臣の右衛門督、未だ聞かざる事也」と、義将の右衛門督任官が公家社会で驚きをもって迎えられたこと記している。応永6年(1399年)に大内義弘が挙兵した応永の乱の討伐にも義重とともに従軍し軍功をあげた。乱後、義満は斯波父子の働きに恩賞として義重に尾張、さらに遠江の守護職が与えられた。至徳年間からは信濃守護を兼ねていたため、斯波氏は越前・尾張・遠江・信濃・加賀に及ぶ五州の太守となり、ここに最盛期を迎えた。但し、信濃は短期間で小笠原氏に交代、領国化はならなかった。応永15年(1408年)の義満の死後は子の義重を管領職に推し、宿老として4代将軍足利義持を補佐する形で重用された。義満の後継には公家社会などから義持の弟・足利義嗣が支持されたが、義将はそれを事前に押さえている。さらに朝廷からの義満に対しての太上天皇追贈を先例のない事を理由に辞退させ、日明貿易(勘合貿易)の停止を勧めるなど、義満の死後にその政策を批判した動きをとる。更に応永16年(1409年)6月7日には、出家の身で4度目(5度目)の管領に就任(『教言卿記』他)し、8月1日には11歳の孫の義淳に管領を譲ることで斯波氏による幕政支配を目指したものの、それから程なく応永17年(1410年)5月7日没。享年61。法名は法苑寺殿道将雪渓。人々はその死を「当世武門の重人也。一家の愁傷か」と悼んだと伝えられる(『柳原家記録』)。京都における義将の本邸が室町通の勘解由小路にあったため、勘解由小路殿(かでのこうじどの)と通称された。彼以降の斯波家当主は代々左兵衛督、または左兵衛佐に任官したため、同家が武衛(兵衛府の唐名)家の名称で呼ばれるようになると、それによって勘解由小路邸も武衛陣と呼称された。現在の京都においても旧武衛邸付近一帯(平安女学院周辺)を武衛陣町と呼び、その名を今に伝えている。また、武家家訓『竹馬抄』の著者(別人説あり)としても知られる。義将の死後、孫の義淳は管領を解任され、甥の満種(義種の子)が加賀守護を解任されるなど徐々に斯波氏の勢威は下降していく。義将は高潔な人格に寛大な性格を持ち、正道を誤る事無く、雅にも通じていたとされ、以下のような逸話も残る。逸話ではあるが、このような正道にかなった義将の行いを世の人々は褒め称えたという。一方で義将は、戦功著しい優れた武将であり、手熟れた政治家でもあった。また、義将が鎌倉公方と内通した罪で義満に討伐されるとの風聞が洛中流れた折、義将は嫡子義重を義満の元へ赴かせ申し開きをさせた。己が義将から疑われていると思われ、驚いた義満は義将の邸宅に赴いて慰撫し、その関係改善に努めたといわれる。このように義将は空前の権力を手に入れた「日本国王」義満に意見できる唯一の存在であった。※日付=旧暦「将」の読みについては「まさ」/「ゆき」の2通りがある。義将時代死後(?)
出典:wikipedia
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