ローベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行う。このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。1810年6月8日、ザクセン王国のツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれる。シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人があった。シューマンの両親はもともと南のチューリンゲン地方の出身であり、シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、ライプツィヒの南、ゲーラ近くのエントシュッツ地区の牧師だった。シューマンの父アウグストは、文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ。1795年にツァイツ()の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚、1799年にロンネブルクで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、スコットやバイロンの翻訳全集などを出版した。アウグスト自身も中世の騎士や修道士を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた。シューマンの母ヨハンナも短い詩を書いたり、ピアノで軽い旋律を弾いたりした。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはモーツァルトのアリアをヨハンナに覚えさせたという。シューマンの友人でヴァイオリニストのヴァジェレフスキ(, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的だったが広い教養はなく、視野が狭かったとされる。その他の伝記では、現実的な性格として描かれている。両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の小学校で学んだ。シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて感動している。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになった。さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でボヘミアのカールスバートに出かけ、イグナーツ・モシェレス(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けた。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなった。また、この年にはライプツィヒで初めてのオペラ、モーツァルトの『魔笛』に接した。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲している。1820年、シューマンは10歳でツヴィッカウのギムナジウムに入学した。シューマンにピアノを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)である。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていなかったが、シューマンの音楽に対する情熱を育てた。シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です。」と述べている。クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらの管弦楽曲をピアノ連弾用に編曲して練習した。父アウグストはシューマンの音楽的才能を認めて高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾いた。シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られるモシェレスの『アレクサンダー変奏曲』を弾いた。また、オーケストラや合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催した。両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援した。こうしたもとでシューマンは作曲を始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的に幻想曲や変奏曲を作っては家族に聴かせるようになった。しかし、この時代の作品はほとんど失われている。父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときにウェーバーに手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼んだ。しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去する。その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去った。父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していた。ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会やサロンに迎えられた。カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥でコルディッツ()の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合う。8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンはシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどであった。シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいた。またシューマンは、このころからシャンパンや葉巻きたばこを嗜むようになった。一方、シューマンは文学にも情熱を燃やした。シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、詩や戯曲を書くようになった。13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩がドレスデンの夕刊紙に掲載された。ギムナジウムでは15歳で「ドイツ文学」サークルに入り、リーダー的存在となる。このサークルを通じてシューマンはシラー、ゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となった。とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウル(1763年 - 1825年)である。ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していた。『巨人』、『生意気ざかり』、『見えない少舎』、『宵の明星』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどだった。また、ホメーロス、ソポクレス、ホラティウス、プラトン、キケロ、タキトゥスなどの古典やバイロン、シェイクスピアなどの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされる。1828年3月にツヴィッカウのギムナジウムを優等で卒業したシューマンは、友人エミール・フレクシヒ(1808年 - 1878年)に宛てた手紙に次のように書いた。シューマンはライプツィヒ大学法科に進学した。これは、シューマンの母ヨハンナの意向及び父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものだった。同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒ及び法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合う。ローゼンはハイデルベルク大学に転校することになっていたが、ジャン・パウルの崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合した。4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人でバイエルン地方への旅に出た。バイロイト、レーゲンスブルク、アウグスブルク、ニュルンベルク、ミュンヘンを訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けた。ミュンヘンでは詩人のハインリヒ・ハイネ(1797年 - 1856年)に会っている。ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャのアナクレオンのように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。(中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが。」と書いている。5月から学生生活が始まり、法律の勉強に取り組もうとしたシューマンだったが、大学の講義への出席率は次第に低下していった。シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っている。ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながった。シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から弦楽器奏者を見つけて室内楽の演奏に熱中するようになった。このころ彼らが好んで取り組んだのはシューベルトのピアノ三重奏曲第1番だった。また、1827年に死去したベートーヴェンを記念して、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けた。聖トーマス教会の礼拝ではバッハのカンタータなどを聞いた。このころの習作として、歌曲や連弾のための8つのポロネーズ、ハ短調のピアノ四重奏曲などが試みられている。とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られる。ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会する。カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)とその娘のクララ(1819年 - 1896年)、ライプツィヒ歌劇場指揮者のハインリヒ・マルシュナー(1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター(, 1782年 - 1864年)らと出会った。ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾された。娘のクララは当時9歳で、シューマンの前でフンメルのピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏した。クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たす。こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなった。同じころ、シューマンはカールスの友人でブラウンシュバイクの楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼んだ。ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来た。シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。―私は、勇気を出して、楽音のオデオン(大劇場)へ上る階段に足を踏み入れたいと存じます。」と感謝と決意を綴っている。友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンはハイデルベルク大学への転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得た。当時ハイデルベルク大学にはティボー(1772年 - 1840年)やミッテルマイアー(, 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由だった。しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでになかった。また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあった。友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告したが、シューマンはこのときは決定できなかった。1829年5月、ツヴィッカウに戻ったシューマンは、ハイデルベルクに向かう旅で南ドイツを回った。マイン川及びライン川沿いを馬車で下り、フランクフルト、マインツ、コブレンツなどを経由して5月21日にハイデルベルクに到着した。このとき初めてライン川を見たシューマンは感銘を受け、母親に宛てて次のように書き送っている。この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行した。フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だったフェルディナント・リース(1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられている。同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、スイスと北イタリアを訪れた。ミラノ・スカラ座ではロッシーニのオペラを聴いた。旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしている。ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家だった。彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていた。ティボーは自らピアノを弾いてヘンデルのオラトリオを演奏した。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになった。シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまで及び、バーデン大公妃ステファニー(1789年 - 1860年)に招かれてマンハイムで演奏するほどだった。こうした時期に、作品1の『アベッグ変奏曲』が完成している。ハイデルベルクでシューマンは葉巻たばこやシャンパンを楽しむだけでなく、居酒屋やレストランを飲み歩き、ダンスパーティーやカーニヴァルの仮装大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれた。彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢している。同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いている。1830年4月、友人たちとフランクフルトに出かけたシューマンは、ニコロ・パガニーニ(1782年 - 1840年)のヴァイオリン演奏を聴いて決定的な影響を受けた。彼は母ヨハンナに宛てて自分の決意を打ち明けた。父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「パンにならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望だった。シューマンの手紙にはヴィークの指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めた。ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンをモシェレスやフンメル以上のピアニストに育てると約束した。これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れた。ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件だった。半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答した。ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めたシューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻った。シューマン20歳のときである。1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、ヴィークの家に住み込みでレッスンを受けた。また、ヴィークの紹介によりライプツィヒ歌劇場の指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にも音楽理論を学ぶ。しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していたフンメル(1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいる。シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けた。1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出た。その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになる。シューマンは自分の下宿やカフェ・バウムなど街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となった。このころの作品に、『蝶々』(作品2)がある。1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られる。故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられているが、詳しくは後段で述べる。同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われている。思い悩んだシューマンは、一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えたが、1832年5月に作曲で身を立てる意志を固めた。いったんピアノを離れて交響曲の作曲を試みたシューマンだったが、『ツヴィッカウ交響曲』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになる。シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していたが、ドイツで流布している音楽批評の水準に不満を感じていた。このため、1833年ごろからカフェ・バウムなどで友人や音楽関係の知己たちと新しい雑誌を発行する可能性について話し合い、1834年4月3日に「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik)を創刊する。「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになった。シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なペリシテ人と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させた。(詳しくは、#音楽評論を参照のこと。)1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれた。この年の日記に、シューマンは次のように書いている。「これより僕の生涯に、大きい断面。10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした。」。しかし、友人のルートヴィヒ・シュンケ(, 1810年 - 1834年)や芸術家のパトロンだった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ(, 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなった。シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていた。シューマンはシュンケに「使徒ヨハン」とあだ名を付け、作品7の『トッカータ』を彼に献呈している。二人の友情はシュンケが1834年末に肺結核で死去するまで続いた。また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「変イ長調の魂」と呼び、ピアノソナタ第2番を彼女に捧げている。1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)がヴィークの新しい弟子としてヴィーク家に住み込んだ。シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約するが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消された。エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーによれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしている。二人の恋愛から生まれたのが、『謝肉祭』(作品9)と『交響的練習曲』(作品13)である。『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ(ASCH)の文字に基づく音型をちりばめている。また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づく変奏曲である。1835年からシューマンとクララとの恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ました。シューマンとクララははじめ兄妹のような関係だった。シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かっていった。 1835年秋、フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開いた。これを聴いたシューマンは、「新音楽時報」で絶賛する。クララは1835年12月9日に16歳でゲヴァントハウスでのデビューを飾り、シューマンの故郷ツヴィッカウでも演奏会を開いた。このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っている。シューマンとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移り住まわせ、シューマンから遠ざけた。同年2月4日に母ヨハンナが死去するが、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになった。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったという。さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとした。シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいる。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願した。数日後にヴィークは会見に応じたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げた。シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです。」と報告している。クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていた。だが、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いていった。クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化した。ヴィークもこれを妨げることはできなかった。日本の音楽学者前田昭雄(1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立したピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べている。シューマンは1838年10月から翌1839年4月までウィーンに滞在した。クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「新音楽時報」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのである。これには、詩人アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれる。同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「ベートーヴェンとシューベルトの楽都」でもあった。しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えた。当時のウィーンは反動保守の政治体制下にあり、各地の自由主義運動や革命の波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していた。このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念する。ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れた。ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰った。また、帰途にシューベルトの兄フェルディナンド(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中から大ハ長調交響曲の草稿を発見した。この交響曲は1839年3月21日、ライプツィヒのゲヴァントハウスでの演奏会でメンデルスゾーンの指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになる。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールをベルリンに訪ねてクララとの結婚の同意を得た。また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、シェイクスピアと音楽との関係についての論文によってイェーナ大学の哲学博士の学位を取得している。訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出した。クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らした。ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとしたものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様だった。彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせた。こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となった。形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせた。この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができた。シューマンはこのことでヴィークを別件の名誉毀損で訴えた。1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。この結婚式には、4月に知り合ったばかりのフランツ・リスト(1811年 - 1886年)も出席している。名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処された。シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していた。しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と歌曲を手がけるようになる。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。二つの『リーダークライス』(作品24及び作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)である。これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる。これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ。」と語っている。結婚後、シューマンはクララとともにバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した。1841年には交響曲第1番(作品38)が完成する。この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり、この曲の成功は、シューマンの創作活動においてピアノ曲と歌曲から交響曲作家への脱皮という画期をなすものとなった。その後もシューマンは『序曲、スケルツォとフィナーレ』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後のピアノ協奏曲第1楽章)、ニ短調交響曲(後の交響曲第4番)などオーケストラ作品に取り組んだ。翌1842年には、シューマンは室内楽曲の分野に足を踏み入れ、3曲の弦楽四重奏曲(イ短調、ヘ長調、イ長調の作品41)、ピアノ五重奏曲(作品44)、ピアノ四重奏曲(作品47)などが生まれた。これには、フランツ・リストの勧めがあった。リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていた。これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがある。シューマンとクララは幼いころから日記を付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合った。毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりした。シューマンが家で作曲しているときにはクララはピアノの練習を控えた。このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いている。シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた。シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになった。また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなった。クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われた。1842年の演奏旅行ではオルデンブルクでクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っている。屈辱を味わった彼は、一時はアメリカへの移住を考えたほどだった。1844年のロシア旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれた。しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べている。このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれる。結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだライプツィヒは、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。その中心にいたのは、メンデルスゾーンである。彼はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を務める傍ら、1843年にライプツィヒ音楽院を創設し、イグナーツ・モシェレス(ピアノ)、フェルディナンド・ダヴィッド(ヴァイオリン)、モーリッツ・ハウプトマン(音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた。メンデルスゾーンはイギリスからウィリアム・スタンデール・ベネット、デンマークからニルス・ゲーゼらをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。シューマンは彼らを「新音楽時報」で応援したほか、ベネットに『交響的練習曲』(作品13)を献呈しており、『子供のためのアルバム』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている。シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。最初は1842年で、「過労」としてクララとともにボヘミアの温泉に保養に行った。日本の音楽評論家、門馬直美(1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった。しかし、1843年1月にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)がパリからライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた。1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、トマス・モアの原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)を完成させる。『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。この年、クララの父ヴィークがシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった。二度目は1844年8月、ロシア旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった。この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した。クララはサンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功したが、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった。ライプツィヒに戻ったシューマンは、「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ()に譲り、ゲーテの『ファウスト』の音楽化の構想を練り始めた。しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、高所恐怖症の症状を示すようになった。シューマンは『ファウスト』第2部最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成はドレスデン時代を経てデュッセルドルフ時代まで持ち越されることになる。また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった。10月にシューマンはドレスデンで類似療法の医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた。記録によるとシューマンの症状は、幻聴、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな恐怖症があった。とくに幻聴のために作曲もできなくなった。クララはこのころのシューマンについて、「ローベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです。」と書いている。病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する。この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人のゲーゼが選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった。1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともにライプツィヒを去った。ドレスデンに移ったシューマンはバッハの作品を再び研究し始めた。1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした。この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である。創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加してピアノ協奏曲(作品54)を完成させた。交響曲第2番(作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した。この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになっていた。このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる。当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都としてフリードリヒ・アウグスト2世の治世下にあった。芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。また、交響作品や室内楽よりもオペラが好まれた。こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていたフェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)である。シューマンとヒラーは協力して、ライプツィヒのゲヴァントハウスのような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。このとき、出演予定だったクララが病気のため、代役としてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたのは、当時14歳のヨーゼフ・ヨアヒム(1831年 - 1907年)だった。しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった。また、シューマンはドレスデン宮廷歌劇場の楽長をしていたリヒャルト・ワーグナー(1813年 - 1883年)と出会う。しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった。一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた。シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった。家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた。1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人はウィーンで一連の演奏会を開催し、シューマンの交響曲第1番やピアノ協奏曲などを取り上げたが、失敗に終わった。音楽批評家のエドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが。」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。クララ、10年経てばすべてが変わるよ。」となだめるシューマンの姿を書き残している。二人の窮地を救ったのは、「スウェーデンのナイチンゲール」と称されていたソプラノ歌手、ジェニー・リンド(1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた。また、リンドを通じてシューマンとアンデルセン(1805年 - 1875年)との交流が生まれた。1847年からはオペラ『ゲノフェーファ』(作品81)に取りかかるが、精神障害に悩まされながらの作曲となった。7月、生まれ故郷ツヴィッカウでシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。記念祭のハイライトはシューマンの交響曲第2番の発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった。一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった。1847年11月、友人のヒラーがデュッセルドルフの音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」の指揮者となる。シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した。前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。声楽曲としては、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、バイロンの詩に基づく劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)第1部の主要部分が作曲され、歌曲にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある。管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86、1849年)がある。室内楽曲の分野では、ピアノ三重奏曲第1番、同第2番のほか、オーボエやクラリネット、チェロ、ホルンのための作品が書かれている。また、ピアノ曲では『森の情景』(作品82)や『子供のためのアルバム』(作品68)がある。後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる。ドイツに起こった三月革命は、1849年5月にドレスデンにも及んだ。思想的には自由主義・共和主義に共感していたシューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった。シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した。1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会()」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした。その一方で高所恐怖症が悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』のライプツィヒ公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった。このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていたウィーン音楽院院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった。1849年の秋、ヒラーからケルンで新しい職に就くため、デュッセルドルフの音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った。シューマンはためらったが、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた。シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った。デュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎を受けた。この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた。創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれたチェロ協奏曲(作品129)と交響曲第3番「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった。しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した。この年、シューマンは室内楽協会を設立している。つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えばミサ曲の演奏では曲が終わり、神父が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった。また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった。指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく。1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。新しく組織された理事会とシューマンは、ユリウス・タウシュ(, 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した。1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの交響曲第4番(作品120)が初演され、成功した。5月17日にはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でヨーゼフ・ヨアヒムと共演する。ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ(作品105、作品121)、ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(作品131)、ヴァイオリン協奏曲(作品番号なし)が書かれた。しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった。ヨアヒムは、これについて次のように述べている。ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている。これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった。オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。シューマンは受け入れざるを得なかった。ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする。シューマンの病状は次第に重くなっていった。1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている。1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は北海沿岸の保養地シェヴェニンゲンに出かけたが、効果はなかった。シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンは降霊術を扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です。」と書いている。1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、フランスの著述家、マルセル・ブリオン(, 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする。例えば、チェロ協奏曲は1850年10月10日から24日にかけて、交響曲第3番は1850年11月2日から12月9日にかけて、ヴァイオリンソナタ第1番は4日間、同第2番は6日間、ピアノ三重奏曲第3番が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された。ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記ゲーテの『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、シラーの『メッシーナの花嫁』序曲、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、ウーラントの『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある。シューマン畢生の大作となった『ゲーテのファウストからの情景』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された。デュッセルドルフの音楽監督の職務には、カトリック教会の典礼に基づく宗教音楽の実践義務も含まれていた。このため、シューマンはパレストリーナやバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトらの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のためのモテット『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年にはミサ曲(作品147)、レクイエム(作品148)などが作曲された。1853年9月30日、当時20歳のヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた。ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか。」といった。ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している。シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ。「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った。シューマンはライプツィヒの音楽出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルに手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった。ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した。この間ヨアヒムもデュッセルドルフを訪れ、シューマンはブラームス及び弟子のアルベルト・ディートリヒ(1829年 - 1908年)とともに『F.A.E.ソナタ』を共作してヨアヒムに贈っている。シューマンはクララとともにたびたびデュッセルドルフを抜け出して演奏旅行に出かけた。とくにオランダではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、ハノーファーでの演奏会を成功させた。シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという。クララは日記に次のように記した。2月17日には、シューマンは天使たちが歌って聞かせてくれたという変ホ長調の主題に基づく『主題と変奏(天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲したヴァイオリン協奏曲に酷似している。翌18日になると天使たちは悪魔に変わり、虎やハイエナの姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で地獄に落ちるのだといって聖書を読み続けた。その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、身の回りの整理を始めた。翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げた。飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった。シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。君もそうしてください。そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです。」という走り書きがあった。シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された。家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、ボン近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった。3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった。このときクララは懐妊中であり、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである。シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館)は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた。外出もしており、ボンでベートーヴェン記念碑を訪ねている。部屋にはピアノや五線譜、筆記用具が備えられ、作曲もできた。エンデニヒにおいて、シューマンはパガニーニの24の奇想曲用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている。クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家のハンスリックらが面会に訪れた。シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている。また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない。シューマン自身は回復できる
出典:wikipedia
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