パーラ朝(パーラちょう、英語:Pala dynasty)は、8世紀後半から12世紀後半まで、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配した仏教王朝(750年年 - 1162年あるいは1174年)。首都はパータリプトラ、ガウル。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅亡したのち、ベンガル地方とビハール地方は無政府状態に陥り、北西インドのプラティーハーラ朝とデカンのラーシュトラクータ朝の侵入もあって、この地域は「マンスヤンヤーヤム(魚の法律、すなわち弱肉強食をあらわす)」と呼ばれた。そのため、この地方の混乱を収拾しようという動きがあらわれ、750年頃にゴーパーラが各地の名士たちによる公式な選挙で王に選出された(ゴーパーラの父シュリー・ヴャプヤタは、この混乱期に武力で小王国を建設した有能な戦士だったようだ)。『ラーマチャリタ』によるとパーラ朝の故地はヴァイレーンドリーとされており、ゴーパーラは同地で王位についたといわれている。この王家の起源は不明であるが、ラージプートの王朝などのように、その祖先を神話や史詩の英雄にさかのぼらせていない点から、クシャトリヤでもバラモンでもなかったと推定される。770年、ゴーパーラの息子で次王ダルマパーラが王位を継承した。その治世、デカン地方のラーシュトラクータ朝、東インドのパーラ朝とカナウジをめぐり激しく争った。カナウジは小国アーユダ朝が支配していたが、ヴァジュラーユダの死後に二人の息子インドイラーユダとチャクラーユダが王位をめぐり争い、インドラーユダが王位を継承した。敗れたチャクラーユダはパーラ朝のダルマパーラと同盟してカナウジに侵攻、インドラーユダはヴァッツァラージャに援助を求め、彼もこれに応じた。こうして、インドラーユダと同盟するヴァッツァラージャは、チャクラーユダと同盟するパーラ朝の領土に攻め入り、その軍勢を撃破してベンガル・ビハールに攻め入った。ところが、ラーシュトラクータ朝のドゥルヴァがすかさずにデカンからプラティーハーラ朝に侵攻し、ヴァッツァラージャはこれに敗れ、ラージャスターンのジャーロールへと逃げた。その後、ダルマパーラはヴァッツァラージャの支援をなくしたインドラーユダを見て、カナウジを攻撃し、この地を占領した。インドラーユダは今度はドゥルヴァに支援を求め、パーラ朝はドゥルヴァに敗られ、カナウジを奪還された。だが、ラーシュトラクータ朝の全軍がデカンに引き上げて戦場を明け渡すと、パーラ朝がインドラーユダを排除してカナウジを奪還、チャクラーユダを王位につけた。そして、北インド(パンジャーブ、ラージャスターンなど)の諸王を招いて大会議(ダルバール)を開き、自ら祭主となってチャクラーユダの即位式を挙げているが、これはチャクラーユダがパーラ朝の宗主権を言受け入れたことを示していた。ここにダルマパーラはパーラ朝のベンガルからカナウジに及ぶ大帝国を築き上げた。その後、ドゥルヴァの後継者ゴーヴィンダ3世がヴァッツァラージャの後継者ナーガバタ2世を破ったのち、ダルマパーラは南方遠征に向かう情報をつかんだ。ダルマパーラはチャクラーユダとともにゴーヴィンダ3世に貢納品を送り、ラーシュトラクータ朝と講和を結んだ。だが、ナーガバタ2世はラーシュトラクータ朝が南方遠征に専念して北方に関心を示さなくなると、プラティーハーラ朝は北インドの覇権を狙って行動するようなる。チャクラーユダのアーユダ朝を滅ぼして、カナウジを占領、その地に遷都した。ダルマパーラもにムドゥガギリ(ムンゲール)で敗れ、北インドの覇権はプラティーハーラ朝に取って代わられた。なお、ダルマパーラは熱心な仏教徒で、ヴィクラマシーラ寺院など多くの僧院を建設し、グプタ朝の時代に建設されたナーランダー僧院など、かつてから存在した仏教寺院も保護された。ダルマパーラの息子デーヴァパーラの治世、パーラ朝は最盛期を迎えた。デーヴァパーラは父ダルマパーラが北インドで敗北したのを見て、東部での足場を固めることにした。彼はアッサム地方とオリッサ地方北部に侵攻し、それぞれの王に宗主権を認めさせた。また、その勢力はネパールの一部にまで及んだ。また、プラティーハーラ朝が弱小な王ラーマバドラであることを見て、デーヴァパーラは反撃に出た。ビハールからヴァーラーナシー一帯に至る地域はパーラ朝の領土になり、ガンジス川一帯に広大な領土が築かれた。次のボージャ1世はも東部に支配を拡大しようとしたが、デーヴァパーラによって阻止された。。パーラ朝は東南アジアとも盛んに交易を行い、仏教を通した交流もあった。デーヴァパーラの治世もまた同様に信仰の篤い仏教徒であった。王の治世には有名なところではシャイレーンドラ朝からの使節が来訪し、目的は同王朝が建てたナーランダー僧院に5ヶ村を施与することにあった。デーヴァパーラの死後、弱小な王が続き、その大帝国の維持に困難をきたすようになってきた。デーヴァパーラの息子マヘーンドラパーラはすぐに死亡し、名将と誉れ高い従兄弟ヴィグラハパーラ1世が王位についたが、その息子ナーラーヤナパーラのために退位した。ナーラーヤナパーラの長い治世、860年にラーシュトラクータ朝の君主アモーガヴァルシャ1世の侵攻を受け、その軍勢に敗れた。ただし、これは征服目的ではなかったため、領土の縮小にはつながらなかった。また、9世紀後半にボージャ1世のもとでプラティーハーラ朝が台頭し、パーラ朝の領域を侵食した。次代マヘーンドラパーラ1世の治世にはさらに領域を侵食され、マガダ地方が奪われたが、ベンガルの主要部分をなんとか保持した。ナーラーヤナパーラの治世末期、916年から917年にかけてラーシュトラクータ朝のインドラ3世にプラティーハーラ朝に侵攻し、その君主マヒーパーラ1世は一時王位を追われた。パーラ朝はその混乱に乗じて、マヘーンドラパーラ1世に征服されたマガダ地方を奪還した。10世紀に入ると、プラティーハーラ朝は弱体化して分裂し、かつての力を失い、ガズナ朝のマフムードの侵攻を受けて事実上滅亡した。ラーシュトラクータ朝も南方のチョーラ朝との抗争、内乱で弱体化し、10世紀後半には封臣チャールキヤ家のために滅亡することになった。だが、ラージヤパーラの治世、最大の脅威であったプラティーハーラ朝が衰退したにもかかわらず、パーラ朝は再び縮小期に入った。パーラ朝もまた、プラティーハーラ朝が衰退した要因のひとつであるサーマンタ(封臣)の自立化に直面しなけられならなかった。すでに10世紀前半にはベンガル東部は仏教徒の王カーンティデーヴァが独立し、11世紀になるとチャンドラ朝が同地方を支配し、やがてベンガル南部に進出した。ベンガル北部および西部にはカンボージャ朝が10世紀後半に独立を果たした。だが、マヒーパーラ1世は王朝の第二の創始者といわれ、ベンガルを逐われてマガダ地方に支配を限定されていたパーラ朝はその治世に再び勢力を盛り返した。彼は1000年までにベンガル北部、東部の大部分を回復し、ヴァーラーナシーさえも支配下に置といわれる。とはいえ、1023年にパーラ朝はチョーラ朝のラージェーンドラ1世の軍勢に敗れ、その軍がガンジス川流域にまで到達するなど、王朝の衰運は止めることができなかった。この軍勢の目的はガンジス川の聖水など戦利品目的であったため、領土の縮小にはいたらなかったものの、南のカラチュリ・チェーディー朝のガーンゲーヤがそののち侵攻するとパーラ朝の軍勢は敗れ、ヴァーラーナシー一帯が征服された。パーラ朝はその後、内紛でベンガルを失い、さらには後期チャールキヤ朝の君主ヴィクラマーディティヤ6世の攻撃を受け、徐々に弱体化した。ラーマパーラの時代、周辺のサーマンタ、同盟勢力の協力もあって、一時的ながらもマヒーパーラ1世時代の勢力を回復することに成功した。だが、その後はサーマンタの自立、周辺勢力の圧迫があって領土は縮小した。加えて、ベンガルの新興王朝であるセーナ朝に圧迫されて、王朝はまったく振るわず、ビハールの一勢力となった。そして、マダナパーラの治世、1162年頃にセーナ朝に滅ぼされた。とはいえ、ゴーヴィンダパーラという人物が継いだともされるが、それでも1174年には滅亡している。パーラ朝の歴代の王は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、のちのビハールの語源となるほどであった。8世紀の後半に、インド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどを、チベットへ仏教使節を派遣した。パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名となり、その美術は「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られている。とはいえ、民衆は仏教のみならず、ヒンドゥー教を信仰する者もいた。
出典:wikipedia
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