日高 晤郎(ひだか ごろう、1944年2月28日 - )は、日本の芸人、ラジオ パーソナリティ、歌手、俳優。本名、細谷 新吾(ほそたに しんご)。旧芸名は飛鷹一、日高吾郎。大阪府大阪市西成区出身。日高エージェンシー所属。東京都在住。1960年、16歳。コックの見習いをしながら高校に通っていた時、スポーツ新聞で見た、大映主催の「第1回ミス・ミスターフレッシュフェイスコンテスト」に応募。中学校で演劇部だった経歴を活かし、優勝を飾る。大映京都撮影所演技研究所に入所(第2期生)。1961年、17歳の時、新人俳優「細谷新吾」を名乗り、市川雷蔵の相手役として、映画『江戸へ百七十里』でデビュー。雷蔵に才能を認められ、彼の推薦で、一時期は劇団くるみ座の毛利菊枝の下で、「特待生」として、座員と共に、演技や台詞の基礎を学んでいた。その後、勝新太郎にも目をかけられ、二人の師匠の下で、数々の映画に出演。1965年、「もっと活動の場を広げて修行したい」との志で、大映を退社。上京を決意。活動の場を既に斜陽となっていた映画界から、テレビ ドラマに移す。芸名を「飛鷹 一」(ひだか はじめ)に改名。日高の固い意志を理解し、上京に猛反対する日高の養父に土下座し、説得したのは他でもない勝だった。雷蔵も、自分の映画に準主役級の役を用意していたところでの報せで、残念がる一方、「確かに、お前にここは狭すぎる」と理解を示した。こうして上京を果たすが、当然、満足に仕事にはありつけず、この頃から弾き語りやクラブのボーイなどで日銭を稼ぎ、食い繋ぐ生活となる。後年、現在でもディナーショーなどで披露しているフラメンコ ギターはこの頃に学んだものである。雷蔵を安心させようと「某局のプロデューサーから目をかけてもらった」などと嘘の手紙を書いていたが、当の雷蔵は周囲の後輩俳優に「新吾は偉いやっちゃなぁ。毎月、こうして手紙をくれるが、喰えていない事くらい俺にもわかる、しかし喰えない時に、こうして見栄を貼れるというのは立派なもんや。見栄があるから保っていられるんや」と話し、しっかり見抜きながら、その姿勢を褒めていたという。1967年、23歳。クラウンレコードから『流れ者小唄 (B面:東京阿呆鳥)』で、歌手デビュー。「飛鷹だと読みにくい」との理由で付けられた芸名が「日高吾郎」で、現在の芸名となる(のちに晤郎と改名)。以後、3年間で、LPを含め、10枚のレコードを発売。1969年7月17日、役者としての日高を認め、支えた師匠 市川雷蔵が死去。その訃報を「歌手」として、地方のキャンペーン先で知らされる。「役者」でなく「歌手」として、師匠の死を知ることとなった事に大きな衝撃を受け、これを契機に、レコード歌手から挫折。その後は俳優としてテレビドラマの出演、ワイドショーのレポーター。声優として、洋画の吹き替えやラジオ ドラマの出演などの活動を続ける。1974年4月7日、NETテレビ(現・テレビ朝日)の「日曜洋画劇場」で、映画『007シリーズ』がテレビ初放映された際(作品は『007 ゴールドフィンガー』)、主演のショーン・コネリーの吹き替えを担当。1977年、かつての役者仲間が、札幌・琴似のキャバレーで「箱入屋」をしており、「1週間でも、3日間でもいいから・・・」と懇願され、ステージを務める。その話芸の巧みさ、誠実な仕事ぶり、人柄が、キャバレーのオーナーに気に入られ、3日間のステージを務め上げたあとは「オーナーの遊興仲間」として、1ヶ月間滞在。オーナーからは「すっかり長居をさせて申し訳なかった。来月も来い」と再び、札幌に呼ばれたものの、仕事のあてもない日々を過ごしていた。そんな時「本当のところ、何をやりたいのか」と問われ、「今までやったことが無い、自分のラジオ番組がやってみたい」と話したところ、紹介されたのが、STVラジオのディレクター(当時)、岩本芳修だった。これをきっかけに、1978年から1983年にかけ、STVラジオの『おくさま広場』。『日高晤郎の朝からなんですが』。STVテレビの主婦向け情報番組のレポーター等を担当。現在に至る基盤となっている。「北海道は新しい物に対して、何にでも飛びつくが育てる事が出来ない」。「YOSAKOI ソーランはダンスコンクールのようなもので、『祭』ではない」と発言している。水道橋博士からは「北海道のたかじん」と呼ばれ、小倉智昭からは『情報プレゼンター とくダネ!』で、やしきたかじんともに紹介された。 STVラジオその他の放送局STVその他の局
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