多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる多田の地を本拠とした系統を指した呼称。清和源氏における「多田源氏」が指す一族の解釈は必ずしも定まったものではなく、今日に至るまで以下のような用い方が流布しているがいずれも誤りではないといえる。但し、近年ではより厳密な定義として、上記摂津源氏の中でも特に多田庄を相続した系統のみを指して「多田源氏」と呼ぶ用い方もなされている(以下にて詳述)。平安時代中期に都の軍事貴族であった源満仲は、二度国司を務めた摂津国川辺郡多田庄を所領として庄内多田盆地(現在の兵庫県川西市多田周辺)に入部し、現在の多田神社(旧多田院)付近に居館を構えて周辺に郎党を住まわせたとされる。そして、これらの郎党を組織して多田庄に武士団を形成したことから、のちに武門として大きく発展した清和源氏一族の最初の拠点となった。多田庄は満仲の嫡子であった頼光が継承し、頼光の長子頼国を経て、その五男頼綱に継承されたと一般的に考えられてきたが、頼光と頼国は専ら中級の貴族として都で活動しており多田との関係を示す史料は現在のところ確認されていない。これに加えて初期多田源氏の系譜には混乱がみられることなどから、多田庄は満仲から七男頼範とその子の頼綱に継承されたとする説が昭和40年代に提起されたことがある。これに対し、満仲の嫡流である頼光・頼国が所領を有さなかったとは考え難く、またこの時代は摂関政治の確立により武力を要する政変などが無くなっていたことなども踏まえ、多田庄の経営は一族や郎党の者に任せ自身は在京したものであるとの考察もなされているが、現時点では判然としていない。多田庄は頼綱の時代(頼国の時代とも)に摂関家に寄進され、摂関家領荘園となる。そして、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には、頼綱が多田荘の郎党を率いて都の防衛にあたっている。その後、多田荘は頼綱の長子明国が継承した。院政期に至ると庶流の国房(明国の叔父)の系統や仲政(明国の弟)の系統が北面武士などとして院に伺候したが、摂関家領である多田荘を継承した明国の系統は行綱(明国の曾孫)の代に至るまで院北面とはなっておらず、代々摂関家の私的武力としての性格を持ち続けた。そして、一族の者は中央に出仕して代々蔵人を務め嫡流は「多田蔵人」を称したが、摂関家の政治力の低下とも相俟ってその勢力は振るわず、行綱に至るまで主だった人物は出ていない。保元の乱では、惣領の座を巡って激しく争った頼盛・頼憲兄弟が後白河天皇方と崇徳上皇方とに別れて戦い、上皇方に与した頼憲とその嫡子盛綱が処刑されている。続く平治の乱では、「多田蔵人大夫頼範」(頼盛の誤伝か)なる人物が藤原信頼・源義朝方として三条殿襲撃に加わり、戦後恩賞として摂津守に任官されたことが『平治物語』にみえているが、その他の史料における所見はなく、多田源氏の動向は詳らかではない。平氏政権下となると、行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られるが、この陰謀で行綱が藤原成親によって反平家の大将に据えられたのも多田荘の武力を背景とした行綱の力量を見込んでのことであった。その後の治承・寿永の乱では、行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。その後の多田荘は、多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は多田氏や能勢氏などとなったとされるが、その詳しい動向は明確でなくなっている。 <清和源氏における多田源氏を中心とした系譜> 太字は嫡統。太線は実子、細線は養子。旧多田荘の荘域にあたる現在の兵庫県川西市・三田市・猪名川町・宝塚市及びその周辺の地域には現在でも多田源氏にまつわる伝承を縁起に残す寺社が複数存在している。464207046X
出典:wikipedia
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