滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。織田四天王の一人。父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。更に中村一氏は甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。甲賀出身という説の他に、志摩の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が仲介したこと、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。なお、諱は一般には「かずます」と読まれるが、『寛永諸家系図伝』および『寛政重修諸家譜』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては音読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である。大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江国の六角氏に仕えていたとされることもある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。なお、後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。信長に仕えた時期は不明であるが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり、また親族とされる慈徳院が、弘治年間(1555年~1558年)に生まれた織田信忠の乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。永禄3年(1560年)、一益は、北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えることを信長に進言した。まずは尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。永禄10年(1567年)と同11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた(大河内城の戦い)。津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている。元亀元年(1570年)9月の石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦の開始で長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には信長の弟・織田信興が小木江城で討ちとられ、一益も桑名城に篭っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護、この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣、鉄砲隊の総指揮を執る。また同年には越前一向一揆を攻略。天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。天正8年(1580年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。天正9年(1581年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。また、同年、京都妙心寺内に自らの子・九天宗瑞を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵は津田秀政の死後に、長興院と改名された)。天正10年(1582年)、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。この際に一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。一益はこの甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。また、甲斐国で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。戦後処理として、3月23日に一益は上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられ、関東管領の地位に任じられている。しかし一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったと言い、三国一太郎五郎への手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が残っている。信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し、引き続き一益を関東統治の取次役にした。一益の役名は史料により「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」などと伝わる。3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曽義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。以後、一益は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。また沼田城には滝川益重が入り、西毛の松井田城には津田秀政、佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(家臣・与力の項参照)。この時、天徳寺宝衍と倉賀野秀景は側近とされ、関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼だけでなく、陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとっており、北条氏政に下野祇園城を元城主・小山秀綱に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた太田資正、梶原政景父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している。但し、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていない。一益も室町幕府の役職である関東公方への対応に苦慮したものと考えられる。同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催。嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。更に23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、上杉景勝方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・栗林政頼に破れたと伝わる。6月2日、信長が本能寺の変によって横死すると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷の狩野一庵から本能寺の情報を得た事を一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている。しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた。一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。一方、一益は6月12日付けの書状で、信長の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広などの主要な武将のみであったとも考えられる。また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した(沼田城の戦い)。旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こり18日に北信の森長可が海津城を捨て美濃へ去り、同様に南信濃の毛利長秀も伊那を放棄し、甲斐の河尻秀隆は同18日に武田遺臣により殺害された。6月16日、信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)、鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)、北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利した。この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し、上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した(神流川の戦い)。同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った。20日一益は人質であった北条高広の次男を返し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、碓氷峠を越え、21日に道家正栄の守る小諸城に入った。この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中には依田康国や真田昌幸の老母が加わっていたという。一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、木曽郡の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。一益は、27日に小諸城を依田信蕃に引き渡して旅立ち、28日に義昌の居城・福島城で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、7月1日伊勢に帰ったという。なお、この途上にあった27日には清洲会議が開かれ、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。(一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌から徳川家康に引き渡されている。)清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となったが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていた為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展した。天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居した。その後、伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなった。天正12年(1584年)、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた(小牧・長久手の戦い)。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略、同年6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸、先に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、更に、下市場城、前田城を占拠した。当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点であった。しかし、山口重政の守る大野城の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城した。しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている(蟹江城合戦)。羽柴秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて、7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった。7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐を予告している。彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。天正14年(1586年)9月9日に死去。享年は62と云われる。
出典:wikipedia
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