御池通(おいけどおり)は、京都市の主要な東西の通りの一つ。京都市の中心に位置する中京区の中央部を横断し、川端通 - 堀川通間は京都市内で最も通りの幅が広く、京都市は川端通から堀川通までをシンボルロードとして整備した。地下鉄の東西線が走っている。平安京の三条坊門小路にあたる。東は川端通から西は太秦の天神川通までの4.9kmであるが、途中二条駅前で行き止まりとなり、一筋北に通りがずれている。神泉苑の池の傍を通るためこの名前になったという説が現在広まっているが、江戸時代初期の1665年(寛文5年)発行の地誌『京雀』には「【三条坊門通】この筋を東にては八幡町通と云、…、西にては御池通と云、此筋室町に御池町あり、むかし鴨居殿とて御所あり、鴨の下居池の井ありける跡也とかや」とあり、神泉苑には結びつけていない。また、江戸時代中期の1762年(宝暦12年)発行の『京町鑑』には「此通の号は神泉苑の前通ゆへ斯くよぶ 又此通両替町人家の裏に御池の旧跡なりとて今讒(纔わずか)に残り池中に社等有とぞ」と両論併記している。これらから「御池通神泉苑起源説」は「御池」の痕跡が薄れ人々の記憶から失われた後に生まれた説である可能性が大きい。今も烏丸御池付近には「御池之町」「龍池町」「二条殿町」の地名が残る。池も含めて二条殿の地は、二条関白家の邸跡で、織田信長の「二条新御所(二条城)」の故地でもある。この二条殿は『京雀』にいう「鴨居殿」が後に拡張された屋敷と見られ、『おもひまゝの日記』には池の中に「島々」や「五尺ばかりの滝」があったと記すから、御池通の地名起源に相応しい大規模な池があったことが分かる。滝があったことは室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれている。室町通御池上ルには「二条殿御池跡」の碑も現存する。「御池町」の名も文亀年間の文書に現れる。神泉苑の池は古来「池」でなく聖なる「泉」であったことを考慮すれば「御池通神泉苑起源説」は俗説とすべきで、「二条殿御池起源説」に従うべきだろう。東端の区間である川端通から堀川通の間は、第二次世界大戦時に沿道にあった家屋を防火帯として強制疎開させた跡なので、往復8車線の広い通りとなっている。以前は側道が設けられており、本線と側道の分離帯には1953年以降に植樹され大きく成長した212本のケヤキの街路樹があり優れた都市景観を形成していた。ケヤキは地下鉄東西線建設工事を控えた1990 - 1991年に撤去され、梅小路公園へ移植された。当初はすべてを御池通に戻す計画であったが、健全なケヤキのみが御池通へ戻された。道路照明灯、信号機、歩道、南北方向の交差道路の標柱などのデザインが統一されており、京都のシンボルロードとして模範となる都市景観を形成している。歩道の車道寄りには新たにケヤキ223本が植え直された。市役所前には地下街や市営地下駐車場が整備されている。祇園祭の山鉾巡行の経路の一部となっているほか、各種のイベントでは交通規制してパレードなども行われる。地下鉄東西線の京都市役所前 / 烏丸御池 / 二条城前の3つの駅がある。道幅が狭くなり2車線である。迂回路としてすぐ北側に並行する押小路通が4車線の広い通りになっており、地下鉄東西線もこの区間では北に逸れて押小路通の地下を通っている。JR二条駅前で行き止まりとなっているが一本北の交差点、千本押小路交差点の西側が再び御池通となっている。地図で見ると掛け違いになっているのが解る。もとは二条駅によって東側と分断されていた狭い通りで、千本通と御前通の間は西行一方通行で軽四輪や小型の普通車しか通れなかった。山陰本線高架化と、二条駅再開発に伴い拡幅工事が進んで4車線になり、駅によって分断されていた通りも東へ延びて押小路通と千本押小路交差点にて接続された。その為、千本通と七本松通の間では斜行している。拡幅工事と並行して地下では地下鉄東西線の延伸工事がなされ、2008年1月16日に太秦天神川駅まで開業した。途中、西大路通との交差地点に西大路御池駅も設置された。同時に地上部分の舗装も進み、御池通もかつての西端である天神川通を越えて太秦天神川駅前ターミナル、さらに西の三条通へと交差する形となった。三条通と御池通は旧市街地内では平行して走る東西の道路であるが、三条通が西大路通以西でやや北西に傾くため交差することとなる。御池通と三条通の交差点名は、交差点の命名に関する慣習に従い「三条御池」と名付けられた。2005年度平日24時間交通量(台)
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。