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出羽三山

出羽三山(でわさんざん)は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。かつては、鳥海山や月山の東方にある葉山が三山に含まれていた時代があった。湯殿山は、かつて「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったのである。天正年間、これまで出羽三山の1つに数えられていた葉山が、別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の1つとして数えられるようになったと言われている。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。出羽三山で有名な即身仏は、真言宗の湯殿山派で行われたものであり、天台宗の羽黒山・月山派では行われていない。即身仏が残されている大日坊、注連寺は、いずれも湯殿山4ヶ寺である。元々、出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。出羽三山の修験道には、かつて、当山派、本山派の修験も存在した。これに加えて月山の祖霊信仰が結びついた、土着の羽黒派修験の3修験の修行道場として共存していた。なお、当山派や本山派では、空海や役小角を出羽三山の開祖としていた。このうち空海開基説は、真言宗湯殿山派諸寺において唱えられている説である。これによると、空海が諸国漫遊の旅を行っている途上、ある川(梵字川。赤川の上流部の名称)を光り輝く葉が流れてきた。それを拾い上げるとその葉には、大日如来を表す5文字の真言が書かれていたため、この川の上流に聖地があると確信して川をさかのぼり、ついには湯殿山にたどり着いたという。湯殿山派諸寺では、湯殿山および空海によって開かれた大網の地を「高野山と対なる聖地」としている。なお、出羽三山の寺社の中には、東照大権現や飯縄権現が勧請される例もあった。現在、毎年8月末には出羽三山神社(神道)、羽黒山修験本宗(修験道)のそれぞれの山伏により「秋の峰」と呼ばれる1週間以上におよび山に籠る荒行が行われる。出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)とされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。鎌倉時代には僧兵の存在が確認され、幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、全岩東純、越叟了閩、界厳繁越らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び長州大寧寺、駿河梅林院などで活躍した。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は 1997年(平成9年)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。大網に庄内藩の「大網御番所」が、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」がそれぞれ置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。明治の神仏分離で神社となった。1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。以上の文化財のうち、羽黒山正善院黄金堂の所有者は羽黒山正善院。その他の文化財の所有者は宗教法人月山神社出羽神社湯殿山神社。

出典:wikipedia

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