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リヒャルト・ゾルゲ

リヒャルト・ゾルゲ(, , 1895年10月4日 - 1944年11月7日)は、ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。石油会社に勤めコーカサスで仕事をしていたドイツ人鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人として、ロシア帝国バクー県のサブンチで生まれる。父方の大叔父フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ()はカール・マルクスの秘書であり、ハーグ大会後の第一インターナショナル・ニューヨーク本部の書記長であった。3歳の時に家族とともにベルリンに移住、ベルリン大学に通う。1914年10月に第一次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはドイツ陸軍に志願した。1916年3月に西部戦線で両足に重傷を負い、入院していた時にキール大学で社会学を専攻する従軍看護婦から社会主義理論を聞かされる。1917年11月にロシア革命が起こり、ゾルゲは衝撃を受ける。第一次世界大戦の終戦後はベルリン大学・キール大学を経てハンブルク大学で学び、ここで1919年に最優秀の評価を得て政治学の博士号を取得した。その後は教員、炭坑作業員、新聞への寄稿で生計を立てた。1919年にドイツ共産党が結成されるとハンブルク支部に加入した。1924年4月にフランクフルト・アム・マインで開催された第9回ドイツ共産党大会に参加し、ソロモン、ピアトニッキー、マヌルイルスキー、ロゾフスキーなどロシアの共産党関係の要人に強い印象を与えた。また、ゾルゲはフランクフルト学派の一員でもあった。1924年にフランクフルト大学に西欧マルクス主義研究の拠点となる「社会研究所」が創立された時、最初の発足会合から参加、所員となり、在籍していた。同年、ソビエト連邦共産党に加入するためにモスクワへ派遣され、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に配属された。この所属変更は後に日本において特別高等警察(特高)の管轄か、陸軍憲兵隊の所管かに関わることとなる。1930年にドイツの有力新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の記者という隠れ蓑を与えられ、日本やイギリス、フランスなどの大国の租界が存在し、多くのスパイが動いていたといわれる中華民国の上海にソ連の諜報網を強化と指導を目的として派遣される。なおこの頃より「ラムゼイ」というコードネームを与えられている。半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。活動は漢口、南京、広東、北京、そして1932年に満州国として独立することとなる満州地方などを中心にして行われている。ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになった。上海におけるゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。上海では、仕事を通じて当時中国共産党の毛沢東に同行取材するなど活躍していたアメリカ人左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレーと知り合う。スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動し、朝日新聞記者だった尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。また、水野成をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭である。ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長のハンス・フォン・ゼークトや蒋介石から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援した。ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した第一次上海事変を報道した。同年12月にモスクワに戻る。上海共同租界の工部局イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、1933年5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した。1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員というカバーで日本に赴き、横浜に居を構える。当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補から駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次世界大戦の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されている。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや当時のディルクセン大使にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。日本人共産党員とは接触を避け、ロシア語は口にしないなど行動に注意を払いつつ待っていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付ドイツ軍武官やゲシュタポ将校のヨーゼフ・マイジンガーの信頼も得ることになり、やがてオットが駐日ドイツ大使となると、ゾルゲも1939年頃には公文書を自由に見ることが出来る立場となっていた。ヨーロッパで戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになった。ゾルゲは、その肩書ゆえに諜報入手に大切な当時の日本の支配階級との接触の機会を持てず、スパイとしては物足りなかったアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳に代えて、支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。そこでゾルゲが選んだのが上海時代に知り合い近衛内閣のブレーントラストのひとりとなっていた尾崎秀実である。尾崎を仲間にして日本政府に関する情報が入手できるようになった。こうしてアヴァス通信社のユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、宮城、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。ゾルゲは大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づきやすい立場を利用して、ドイツのソ連侵攻作戦の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。他のスパイの情報やイギリスからの通報も、これを補強するものであったが、ヨシフ・スターリンは、ゾルゲ情報を無視した。結果ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで数十キロに迫られるという苦境に陥った。近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。日本軍部は、独ソ戦開戦に先立つ1941年4月30日に日ソ中立条約が締結されていた上、南方資源確保の意味もあってソ連への侵攻には消極的であった。1941年9月6日の御前会議でイギリスやオランダ、アメリカが支配する南方へ向かう「帝国国策遂行要領」を決定した。この情報を尾崎を介して入手することができたゾルゲは、それを10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊をヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功し、イギリスやアメリカによる西部戦線における攻勢にも助けられ最終的に1945年5月に独ソ戦に勝利する。情報はクーリエを使って秘密裏にソ連へ運ばれただけではなく、クラウゼン自身で部品調達して組み立てた短波送信機と市販のラジオ受信機を改造した短波受信機を使いウラジオストクと交信していた。特別高等警察(特高)は早いうちから怪しい無線電波が東京市内からソ連や中国大陸方面に向けて送信されていることを把握していたが、ゾルゲは送信地点を特定されることを避けるために、携帯式の簡易な無線装置と室内に設置したアンテナを使用して住宅密集地にある複数の拠点を転々としながら送信しており、また特高側もクラウゼンにより生成された暗号を解読できなかったため、一味が逮捕されるまで発信源を特定できなかった。特高はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。なおこれを知ったドイツ大使館付国家保安本部の将校で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かったヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された。その後、尾崎が10月14日に、ゾルゲら外国人は10月18日に、スパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって相次いで逮捕された(ゾルゲ事件)。一味の逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ南京国民政府の顧問も務める犬養健、同じく友人で近衛内閣の嘱託であった西園寺公一(西園寺公望の孫)、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議を行ったほか、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している。なお当初ゾルゲは否認を続けていたものの、数々の証拠を突きつけられるとスパイであることを認め、面会に訪れたオットに対しても別れの言葉を口にすることで自らの罪を認めることとなった。その後ゾルゲら20名は1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日独両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。ゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。ゾルゲの死刑執行に立ち会った市島成一東京拘置所所長は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の共産党万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している。ゾルゲは日本の警察や駐日ドイツ大使に対してソ連のスパイであることを自供したものの、当時日本との間で日ソ不可侵条約を結んでいたソ連政府は、日本との関係の悪化を恐れてかたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。しかし1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。このタイミングは、スターリンの死後にその大粛清などを批判した指導者ニキータ・フルシチョフ首相が失脚した直後に当たる。以後、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には東京都郊外の多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。またドイツ民主共和国(東ドイツ)国家人民軍地上軍(陸軍)の第1捜索大隊(偵察部隊)は、部隊称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また東ドイツの国家保安省(MfS)は功労章として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定していた。スローガンは「ロシアと中国の革命を擁護せよ。帝国主義戦争を内乱へ転換せしめよ」であった。東京・銀座のドイツ料理店「ケテルス」でウェイトレスをしていた石井花子と知り合い、同居するなど深い関係をもったものの、正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている。オットやマイジンガーなどのドイツ大使館上層部や、日本の通信社や新聞記者、ギランなどの他国の特派員とも良好な関係を保ち続け、逮捕までその素性を疑う者は皆無であった。※研究書については「ゾルゲ事件」の項目を参照。

出典:wikipedia

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