LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

升田幸三

升田 幸三(ますだ こうぞう、1918年3月21日 - 1991年4月5日)は、将棋棋士。実力制第4代名人。広島県双三郡三良坂町(現三次市)生まれ。名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。木見金治郎九段門下。棋士番号18。三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと、その独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は、将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。父栄一、母カツノの四男として生まれる。1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指して家出。家出の時に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて…」の文言は、後に現実のものとなる(詳細は後述)。広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男。そして後輩には、終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、初段になってからめきめきと頭角を現す。この頃、阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。その後、徴兵されて陸軍に入隊。昭和19年に南方へ派遣され、トラック諸島のポナペ島に上陸する。同島は米軍の制空権下にあり、補給も途絶し、ジャングルの中を爆撃から逃げ回る苛酷な戦況に戦死も覚悟するが、同島には米軍が上陸してこなかったため玉砕は免れた。復員して将棋を再開し、戦後の将棋界で木村と死闘を演じ、木村引退後は大山と覇を競った。第7期名人挑戦者決定三番勝負の第三局(高野山の決戦)において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「"錯覚いけない、よく見るよろし"」という有名な言葉を残す。将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「"たどり来て、未だ山麓"」との言葉を残す。「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。有名な新手には升田式石田流、雀刺し、急戦矢倉、棒銀、ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、居飛車穴熊などがある。その功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。大きな功績を残したが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多く、タイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。このため将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第4代名人」の称号を贈った。実質的な後継者は加藤一二三であるとされているが、加藤のみならずその棋風を慕う棋士は多く、現在の第一人者の羽生善治も、将棋を指したい人は誰かと言う問いに「升田先生と指したい」と述べている(羽生は升田の引退後に囲碁を打ったことはあるが、将棋は指してもらえなかった)。将棋年鑑で「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。谷川浩司とはペア将棋では対局したことはあるが、通常の対局で指したことはなかった。引退後1982年2月27日に羽澤ガーデンにおいて、当時プロに匹敵する実力を持つと言われていた真剣師・小池重明と角落ちで対局し完勝している(大山は角落ちで敗れ、当時の名人中原誠とは角落ちで1勝1敗)。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけ、小池は負けずに「将棋が弱くなっておられると思っていました」と返している。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。晩年は羽生や先崎学といった若手強豪や観戦記者と、碁を楽しんでいたという。升田が将棋指しを目指して家を出たとき、母の使う物差しの裏に書いたとされる言葉である。「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」(「この幸三、名人に香を引くまで帰らん」とも)と書かれていたとされる。「香車を引いて」は香落ちの手合割でという意味であるが、これでは意味が通らないので「勝ったら」は「勝つため」と書き直して紹介した本などもあるが、それは誤りで、あくまでも「勝ったら」です。と本人の自伝に書かれている。本人の自伝では、将棋の世界の仕組みがわかっておらず東京には関根名人がいる、大阪では阪田三吉が関西名人を名乗っている、とすると広島にも名人がおるんじゃなかろうか、まず広島名人をやっつけてから大阪にいく。と当て推量しているが当時の心境を全く覚えていないと述懐している。1952年(昭和27年)の第1期王将戦で、当時の名人である木村義雄と七番勝負を争う。当時の王将戦は三番手直りで、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す制度になっていた。升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、名人に香車を引く対局が実現したが、このときの対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)。1956年(昭和31年)、弟弟子の大山名人(当時)との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。今度は実際に対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をしたのは升田幸三ただ1人であり、当然名人に香車を引いて勝ったのも升田幸三のみである。この時の心境について、升田は晩年のインタビューで以下のように語っている。生涯成績 544勝376敗(勝率:0.591)順位戦(A級)での勝率0.724(139勝53敗1持将棋)は2015年現在においても歴代A級棋士の中の最高勝率である。(詳細は末尾の表を参照)

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。