三菱重工爆破事件(みつびしじゅうこうばくはじけん)は、1974年8月30日に日本の東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件で、連続企業爆破事件の一つである。東アジア反日武装戦線の呼称はダイヤモンド作戦。虹作戦で使用する予定であった爆弾を流用した。東アジア反日武装戦線は第二次世界大戦以前の日本を完全な悪と捉えており、太平洋戦争を侵略戦争として憎んでいた。戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、海外進出を行っていた三菱重工業は現在においても「帝国主義」であると断定。グループの政治思想に基づき「経済的にアジアを侵略している」として無差別爆破テロに至った。東アジア反日武装戦線は、1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦「虹作戦」に失敗していた。しかし、翌8月15日に在日韓国人で朝鮮総連系団体活動家の文世光が朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こした。彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、文世光の闘争に呼応するため新たな爆弾テロを進めた。当初9月1日の決行を予定していた。同グループが引き起こした風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件では、シャクシャインの戦いを起こしたアイヌ民族の首長シャクシャインが松前藩によって殺害された10月23日が選ばれていた。同様に、9月1日に発生した関東大震災で朝鮮人虐殺があった日だから選ぼうとしたという。しかし、同年の9月1日が日曜日で従業員が出勤しておらず、8月31日も丸の内の企業の多くが週休二日で休業していることから、8月30日の金曜日に繰り上げたのだという。1974年8月30日、「狼」の4人は、午後0時25分ごろ三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)1階出入り口のフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けた。これは三菱重工業東京本社ビルと道を隔てて反対側にある三菱電機ビル(現:丸の内仲通りビル)の両方を破壊する意図からであった。現場から立ち去ったあと午後0時45分に時限爆弾が炸裂した。この爆発の衝撃で1階部分が破壊され玄関ロビーは大破、建物内にいた社員が殺傷されたほか、表通りにも破片が降り注ぎ多数の通行人が巻き込まれ死傷した。三菱重工業東京本社ビルの窓は9階まで全て割れ、道を隔てて反対側にある三菱電機ビルや、丸ビルなど周囲のビルも窓ガラスが割れた。また、表の道路に停車していた車両も破壊され、街路樹の葉も吹き飛ばされた。この爆風と飛び散ったガラス片等により、通行人を含む死者8人(即死5人、病院収容後に死亡3人)、負傷376人との戦後日本最悪の爆弾テロ事件となった。この被害は、オウム真理教による松本サリン事件(1994年)と地下鉄サリン事件(1995年)迄は最大規模であった。この時の爆発音は新宿でも聞こえたという。このように甚大な被害が出たのは後述のように爆発物の質量が大きかったこともあるが、通常放射状に拡散する爆風がビルの谷間に阻まれ、ビルの表面を吹き上げ爆風の衝撃波で窓ガラスを破壊したほか、ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わり窓から噴出し、ビル内部も破壊することになった。また爆心には直径30センチ、深さ10センチの穴が開いていた。この爆発の威力は陸上自衛隊によれば、敵軍侵攻を食い止めるために用いる道路破壊用20ポンド爆弾よりも強力だとしていた。東アジア反日武装戦線の予想を超えた被害が出たのは、列車爆破用の爆弾を転用したためと、爆破予告が有効とならなかったためである。犯行グループは守衛室へ8分前に爆破予告電話をかけたが、最初は「悪戯電話」として切られ、再度かけ直した時もすぐ切られた。もう一度かけ電話交換手が爆破予告を最後まで聞いたのが4分前であったが、避難処置は取られなかった。電話交換手は、爆破予告を本を読むような一本調子の無表情な口調で具体的な事をいわなかったので冗談とは思ったが、念のため庶務課長に電話で報告した上で8階の庶務課長室へ向うためにエレベーターに乗った時点で爆発したという。このように企業体制に対する認識不足が原因であったが、犯行グループがその後引き起こした企業爆破では爆発の威力を抑えて爆破時間帯を深夜などとし、十分な予告時間をとって予告電話するようにしたという。また予想を超えた多数の死傷者の位置づけをめぐり内部で議論となった。彼らが最初に作成した犯行声明文は破棄され、最終的な犯行声明は自己弁護とイデオロギー色の強いものとなり、9月23日付となった。視察対象とされた一名に対する捜査をきっかけに、1975年5月19日にメンバーが一斉に逮捕された。この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件であった。東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴した。佐々木規夫と大道寺あや子は日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置で釈放・逃亡するも、リーダー格の男2人(大道寺将司、益永利明)の裁判は続行となった。裁判で被告人らは「爆弾の破壊力が予想できなかった。また予告電話をかけており、殺意は無かった」と殺人罪の無罪を主張した。これに対し検察庁は捜査段階で「死傷者が出てもやむを得ない」と供述していたことや、客観的に見ても白昼人通りの多い場所に置いた上に、予告電話をしても爆弾の種類や場所を明示しておらず、短時間で建物内や通りにいる人々を避難ないし爆弾の無力化は不可能だとして、「未必の故意」があるのは明らかであるとし、殺人罪は成立するとした。裁判所は「天皇殺害目的の爆弾を転用したことは当然三菱重工爆破事件でも殺意が適用される」「爆破数分前の電話は予告とはいえない」「爆破予告が有効にならなかった場合には時限爆弾を止める手段を講じておらず、爆破させる意思に変わりはない」などとして、1987年3月24日に最高裁において、リーダー格の男2人(大道寺将司、益永利明)の死刑判決が確定した。戦後の新左翼事件における死刑判決確定は初めてで、公安事件における死刑判決確定は三鷹事件以来であった。現在、大道寺も益永も確定死刑囚として東京拘置所に収監されている。国外逃亡をしていた浴田由紀子の連続企業爆破事件の裁判が再開された時は、死刑が確定していた大道寺と益永を証人とするために拘置所で出張尋問を受けた(弁護人は大道寺と益永を法廷に出廷させることを要求したが、死刑囚の逃亡懸念から裁判所に退けられた)。なお、判決確定後20年経過しても大道寺と益永の死刑が執行されないのは、「事実誤認」を主張し、再審請求という司法手段を講じていることもあるが、法務省関係者によれば、佐々木ら共犯が国外逃亡しているのも理由の一つだという。この事件がきっかけとなって、犯罪被害者補償制度の確立を求める声が高まり、1980年に犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律が成立した。佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配となっている。
出典:wikipedia
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