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柳ヶ瀬線

柳ヶ瀬線(やながせせん)は、かつて北陸本線の木ノ本駅と敦賀駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。北陸本線として開業した路線のうち、輸送力強化による経路変更で残された区間を、地域輸送のため支線として残したものである。1961年10月1日国鉄ダイヤ改正(通称サンロクトオ)当時近江平野と若狭、越前間の交通、物資輸送は古来よりその重要さにも関わらず分厚い山脈に阻まれ、有数の豪雪地帯でもあることから難渋をきわめ、日本海を大回りする海上輸送に頼らざるを得なかった。笙の川水系を介して敦賀湾 - 琵琶湖を短絡する運河の開削も検討されたが、大掛かりな土木工事や予算、技術などを考え合わせても、非現実的な構想に過ぎなかった。そうした問題を一気に克服する手段が鉄道であった。新橋に初めて汽笛が鳴らされて後わずか12年後という異例の早さでこの地に鉄路が敷設されたことを見ても、いかにこの地域の交通が重要視されていたかがわかる。東西両京を結ぶ中山道幹線の工事が、琵琶湖の水運をはさみ、大津 - 神戸間と長浜 - 岐阜間(資材輸送のため名古屋を経て武豊までの支線も敷設され、後の計画変更で東海道本線となる)でまず開始されるが、すぐ敦賀までの延伸計画が議題に上った。1876年(明治9年)4月技師長V.ボイルの名による「西京-敦賀間ならびに中仙道および尾張線の明細測量に基づきたる上告書」によると当初は高月から木ノ本を経由せず西に折れ、西山から塩津村(現近江塩津駅よりも南方)、深坂峠、新道、麻生を経て疋田に抜ける路線が検討されたが、一向に認可が下りない。予算の都合もあったが1880年(明治13年)1月に柳ヶ瀬経由に変更した案を諮り2月にようやく認可。現地を調査し変更案を策定したのは井上勝鉄道頭である。この理由としては、塩津村経由よりも勾配が緩やかであること、中之郷、柳ヶ瀬、雁ヶ谷は栃ノ木峠を越え今庄村へと続く北国街道沿いの宿場町であり、沿線村落の需要も見込めたこと、さらには椿坂から今庄までの連絡線をも敷設するもくろみもあったと言われる。かような様々な観点から決定した路線ではあるが、それでも雁ヶ谷 - 刀根村には長大トンネルを掘る必要があり、イギリス人技師ウィンボルトの測量を経て、日本初のダイナマイト掘削になった。42万5千円の工費を投じ完成。全長1352mと当時としては日本最長であり、外国人の技術を離れ、日本人だけで完成したトンネルとして誇っていたこの柳ヶ瀬トンネルは日本の鉄道黎明期であったため、断面が小さく傾斜も急であるなど、運転上の制約をもたらした。生野銀山や石見銀山の坑夫が多数動員され、手掘で速度は1日1-1.5mほど、削岩機や空気圧縮機も併用。断面積は国鉄一号形トンネルの71%に過ぎない。腰までが石積みでその上はレンガのアーチとなっていた(現在は壁の石と煉瓦積みの一部をコンクリート巻(セメントのモルタル吹付け)にして待避所、蛍光灯、信号機を設け一般車の通行に供用している)。路線全工費は150万円で建設工事は4区に分けられ、最大の難所である柳ヶ瀬トンネルは実績のあった藤田組が担当。また鹿島組も新規参入し、鉄道工事では新顔ということもあって、中之郷 - 柳ヶ瀬間と刀根 - 疋田間の比較的簡単な土木工事を受注したが、以降鉄道関連の土木事業に進出することとなる。長浜・中之郷間は木村悠 、中之郷・柳ヶ瀬トンネル口間は長江種間 、柳ヶ瀬トンネル・麻生口間は長谷川謹介 、麻生口・敦賀終点間は本間英一郎が工区長に任命された。こうして全通した木ノ本 - 敦賀港間は本線として、また、大陸連絡の重要路線(敦賀港駅とボート・トレインの記事を参照)として位置づけられるのだが、路線の脆弱さ、地域条件の険しさなどから様々な事件に見舞われる。こうしたことから敦賀機関区は対処する技術の開発を余儀なくされ、それが技術の向上にもつながった。貨物輸送に関しては、高月、木ノ本、敦賀、今庄各駅で編成を分割・統合していた。補機の付け替えは中ノ郷・敦賀・今庄で行われた。やがて、強力なディーゼル機関車・電気機関車が主力となり、蒸気機関車の時代は終わった。1928年(昭和3年)12月に柳ヶ瀬トンネル内で延べ5名が窒息死する事故が起きた。この惨事を鑑み、国鉄は隧道幕、集煙装置設置など対策を施し始める(1933年設置)と共に、深坂経由の新線建設を決定。しかし、折からの昭和恐慌 - 第二次世界大戦突入という時節柄もあり1938年になって着手されたが1944年には中断。終戦後、1950年に再開されるがまたも造船不況などにより緊縮予算の煽りをうけ、1953年には深坂トンネルは完成したものの再度中断。しかし朝鮮特需も相まって、輸送力増強が必要となり1957年(昭和32年)に三たび再開。同年10月に漸く木ノ本 - 敦賀の新線が開通し(同時に田村 - 敦賀間は交流電化)、旧線は柳ヶ瀬線として分離される。支線となった柳ヶ瀬線は一閉塞区間となり、勾配区間用の気動車が導入された。営業成績は営業係数1145前後と非常に悪く、「日本一の赤字線」ともよばれた。そのため早い段階で廃止が取りざたされ、それに反対しての国会への存続陳情も度々行われた。やがて本線複線化の路盤提供のためもあり、敦賀 - 疋田間休止、そして全線廃止・国鉄バス転換となった。柳ヶ瀬トンネル敦賀側ポータルに残存していたかつての洞道西口駅ホーム跡もバス転換の際に撤去され、後に記念碑が建てられた。柳ヶ瀬線は国鉄バスに転換後、中ノ郷 - 雁ヶ谷は国道に、雁ヶ谷 - 刀根 - 疋田の主立った路盤はバス専用路として使われた。その後北陸自動車道建設時に路盤を提供し、国鉄分割民営化を経て西日本JRバスに引き継がれるが、早い段階で木ノ本 - 敦賀直通路線は廃止。残った木ノ本 - 雁ヶ谷間は湖国バスへ移管され、敦賀 - 雁ヶ谷間はJRバス路線として維持するも(刀根 - 雁ヶ谷間はその1年後に廃止)、路線廃止のため地元のコミュニティバス(きらめきあらち号を経て敦賀市コミュニティバス)に転換された。柳ヶ瀬トンネルはJR化後に1987年(昭和62年)4月1日から県道敦賀柳ヶ瀬線として一般開放されたが、トンネルは信号機による待時制の一方向通行となり、かつての鉄道時代を偲ばせる。なおトンネル内には国鉄バス専用道化時に離合用の待避設備が新たに設けられた。カッコ内は起点からの営業キロ木ノ本駅 (0.0) - 中ノ郷駅 (4.6) - 柳ヶ瀬駅 (9.3) - 雁ヶ谷駅 (11.4) - 刀根駅 (14.9) - 疋田駅 (20.3) - 鳩原信号場 (23.0) - 敦賀駅 (26.1)また全通前には、柳ヶ瀬線となる区間に以下の駅があった。

出典:wikipedia

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