伊藤 史隆(いとう しりゅう、1962年10月25日 - )は、朝日放送(ABC)ゼネラルアナウンサー。愛知県名古屋市緑区鳴海町出身。名前の"史隆"については、本名で「のぶたか」と読ませるが、放送上は音読みの「しりゅう」と名乗っている。名古屋市立桜台高等学校から、神戸大学経済学部へ進学。高校時代は天文部で歌人の穂村弘と同期。大学はノーベル賞受賞者の山中伸弥と同期入学で、大学時代には落語研究会に所属していた。当時の芸名は「拡益亭喜富(かくえきてい きっぷ)」で、落語家の桂吉弥は落語研究会での後輩に当たる。大学卒業後の1985年に、岡元昇・中邨雄二(いずれも現役のアナウンサー)とともに、アナウンサーとして朝日放送へ入社。同期入社のスタッフに、藤田和弥などがいる。本人の弁によれば、当初は特にアナウンサー志望というわけではなく、放送以外の業種の企業での採用も内定していた。しかし、自分から何の挑戦もしないまま内定を得たことで「マリッジブルーのような感覚」に陥ったところ、神戸大学の就職課で朝日放送アナウンサー職の求人票(若干名募集)を発見。その時点でアナウンスの本格的な経験や勉強を一切積んでいなかったにもかかわらず、前述の落語研究会で磨いた話術を頼りにアナウンサー試験へ「挑戦」したところ、岡元・中邨とともに採用された。ちなみに、放送業界では朝日放送のアナウンサー試験しか受けず、同局のアナウンサーで名前や顔を知っていたのは乾浩明だけだったという。伊藤の採用については、定期採用扱いで先に入社が決まっていた岡元・中邨と違って、当時朝日放送へ在籍していたアナウンサー(氏名不詳)1名の長期出張に伴う欠員の補充を兼ねていた。伊藤自身は、このような社内事情を知らないまま、最終試験で試験官の乾に向かって「採用されなかったら内定を受けた(前述の)企業に就職する」と公言。それでも「岡元や中邨とは毛色の違う人材も(アナウンサーに)欲しい」という上層部の意向で採用に至ったことから、入社の直後には、乾から直々に「(定期採用扱いの)岡元・中邨をドラフト会議での指名を受けて(朝日放送に)入ったプロ野球選手に例えるなら、(他業種の内定先での就職を公言するほど、アナウンサーへの志望動機が薄いにもかかわらず、『欠員補充』扱いで採用された)お前(当時の伊藤)はドラフト外同然で入ったようなものだ」と言われたという。朝日放送への入社後は、スポーツアナウンサーの先輩に当たる因田宏紀や、道上洋三による指導の下でアナウンス技術を研鑽。1985年10月から1年間は、両者が新人アナウンサー時代に最初のパーソナリティを務めた『ABCヤングリクエスト』(ABCラジオ)で、木曜日の最終パーソナリティを務めた。その後は、野球(プロ野球阪神戦や全国高校野球選手権大会)を中心に、ゴルフ(日本女子プロゴルフ選手権大会コニカミノルタ杯)など、主にスポーツ中継で実況・リポーターを担当。1990年から1年半ABCテレビで放送された全国ネット番組『桂三枝のにゅーすコロンブス』では、キャスターを務めている。1995年以降は、大学時代に落語研究会で活動した経験を生かしながら、『日曜落語 〜なみはや亭〜』(ABCラジオ)に席亭(案内役)として出演。2009年7月11日からは、自身初の冠番組『ようこそ!伊藤史隆です』(ABCラジオ)で、メインパーソナリティを務めている。その関係で、2011年9月までの土曜日には、同番組の生放送を終えてからスポーツ実況の現場へ向かうことも多かった。2011年までは、スポーツ実況を担当するかたわら、同期入社の中邨とともにスポーツアナウンサーの管理業務も担当していた。しかし、同年9月25日に『ABCフレッシュアップベースボール』(ABCラジオ)で中継された阪神対巨人戦(甲子園球場のデーゲーム)での実況担当(解説:吉田義男)を最後に、入社以来25年間携わってきたスポーツの中継現場からいったん退いた。2011年10月3日からは、平日夕方の関西ローカルニュース番組『キャスト』のメインキャスターに就任。前番組『NEWSゆう+』での保坂和拓・小縣裕介に続いて、スポーツアナウンサーからニュースキャスターに転身している(小縣は2012年度からスポーツアナウンサーに復帰)。ただし、同年12月31日までは、『キャスト』を放送しない土曜日に『ようこそ!伊藤史隆です』で引き続きパーソナリティを務めていた。ちなみに、『ようこそ!伊藤史隆です』を開始するまでは、出張や旅行などで日本国内の45都道府県へ滞在。さらに、同番組の放送期間中に、番組の企画を兼ねて残り2県(大分県・群馬県)を訪問した。2012年11月25日開催の第2回神戸マラソンで、50歳にして人生初のフルマラソンに挑戦。4時間37分52秒で完走を果たした。2015年3月27日に、『キャスト』のメインキャスターを勇退。同年4月からは、ゴルフ中継を皮切りに、再びスポーツアナウンサーとして活動している。2016年3月28日には、プロ野球の試合が組まれることの少ない月曜日に、『伊藤史隆のOn-site RADIO』(ABCラジオの生放送番組)でパーソナリティを務める。若手時代には主に近鉄バファローズ戦の中継を担当していたが、ニュースキャスターへ転身するまで、大きなスポーツイベントで実況する機会が増加。2002年には、JNN・JRN系列局の優秀なアナウンサーに贈られるアノンシスト賞(第27回)で、大賞(グランダ・プレミオ)とスポーツ実況部門最優秀賞を同時に受賞した。さらに、高校野球DVD&VHSとして発売している「第85回記念大会記念企画 夏の甲子園・不滅の名勝負 1915-2002」で2巻・5巻・8巻のナレーションを務めている。ちなみに、 阪神タイガースを題材にABCが制作に協力した東宝の実写映画「ミスター・ルーキー」(2002年公開)では、中西清起(当時は同局の野球解説者)とともに阪神甲子園球場での実況シーンに出演した。サッカー中継を担当する機会はほとんどないが、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では、ABCラジオの取材リポーターとして約1ヶ月間カタールに滞在。日本代表の最終試合であった最終予選のイラク代表戦(1993年10月28日)では、日本代表が勝ってワールドカップへの初出場を決めた場合に、代表監督・選手へのインタビュアーを務めることが決まっていたが、そこで「ドーハの悲劇」を目撃する羽目になった。『キャスト』メインキャスター時代の2014年5月25日には、朝日放送による阪神対千葉ロッテ戦(甲子園球場のデーゲーム)での阪神応援企画「ファンみんなでガォー祭り!」の一環として、ABCテレビのプロ野球中継へ久々に出演。当時同番組の月曜日で共演していた阪神ファンの遠藤章造をゲストに迎えて、副音声で実況を担当した。『キャスト』からの勇退後は、2015年5月3日のオリックス対福岡ソフトバンク戦ラジオ中継(ABC制作・『RKBエキサイトホークス』向けの裏送り中継)を皮切りに、プロ野球中継での実況を本格的に再開。同年6月20日の阪神対東京ヤクルト戦(甲子園球場のデーゲーム)の実況で『ABCフレッシュアップベースボール』への復帰を果たした。阪神球団が創設80周年を迎えた2015年には、『球団創設80周年 阪神タイガース総選挙DVD』(阪神コンテンツリンク)の制作に朝日放送・毎日放送が協力したことから、両局を代表するスポーツアナウンサーとして毎日放送の赤木誠と共にナレーターを務めた。落語への造詣が深いことから、1年先輩のアナウンサー・三代澤康司(大阪市立大学落語研究会出身)、7年後輩のラジオプロデューサー・戸谷公一(関西学院大学文化総部甲山落語研究会出身)と交代で、関西の演芸専門月刊フリーペーパー『よせぴっ。』の「笑うてABC」という欄にてリレーコラムを執筆している。また、ABCラジオでパーソナリティを務める妹尾和夫からのリクエストで、妹尾が主宰する劇団パロディフライの舞台公演用に「架空実況」を収録することがある。2011年には、マラソン中継での実況経験を基に初めて書き下ろした脚本「ラビット」が、劇団パロディフライ舞台公演番外編「時の旅人 兎」で実際に上演された。『キャスト』のメインキャスターに転身してからも、2012年4月に上演の「時の旅人 辰」に向けて、尾藤公(故人、元和歌山県立箕島高等学校野球部監督)を題材にした作品「ドラゴンスマイル」の脚本を執筆。同作品では、事前収録による架空実況ながら、久々に実況形式のアナウンスも披露した。1994年から2002年まで、「全日本大学女子駅伝」ではABC放送センターの総合実況を担当した。2001年度(2002年放送)まで、「全国社会人ラグビーフットボール大会」では決勝戦が近鉄花園ラグビー場で行われる年度の実況を担当した。
出典:wikipedia
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