村田 真一(むらた しんいち、1963年12月5日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球指導者(コーチ)、野球解説者。捕手として1990年代5度の優勝を経験。捕手としての出場試合数1087は球団歴代4位の記録である。愛称は「チュウ」(ネズミのように泥だらけになるほど練習したことにちなむ)。小学5年から野球を始める。本人は嫌がったが6年から中学、高校でも捕手を任され、滝川高校では強打のキャッチャーとして知られる。高校時代、遠征試合で後にチームメイトとなる川相昌弘と顔を合わせている。、ドラフト5位で読売ジャイアンツ(巨人)に入団。同年の高校出ドラフト入団選手に槙原寛己、山本幸二、吉村禎章がおり、「この3人には負けたくない」と思っていたという。1年目の、一軍の捕手が病気になったため村田が代わりに昇格するが、当時は山倉和博が全盛期だったことと、基本的に二軍の正捕手を上げると試合が成り立たないという理由から出番に恵まれなかった。3年目のに一軍で初出場するが、右肩を痛めたこともあり、一軍と二軍を往復した。この間、有田修三や中尾孝義といった他球団から実績のあるベテラン捕手が入団したこともあり、出番は少なかった。一時は一塁手に転向するという話も出たが、捕手に拘りたいとの理由で断った。4年目の、肩の痛みが限界に達し各地の医者を訪ねるが原因が判らず野球を辞めようと思っていた頃、二軍監督だった須藤豊の勧めでアメリカに渡り手術を受ける。に正捕手の座を掴みチームの連覇に貢献し、ベストナインを獲得する活躍を見せた。特にこの頃は左投手と「甲子園の阪神戦」に強く、1990~1992年の3年間、33本塁打のうち24本塁打を左投手から放ち、阪神甲子園球場での阪神戦では72打数27安打、打率.375 6本塁打と打ちまくった(なお、東京ドームでの阪神戦は62打数16安打、打率.258 3本塁打)。はシーズン途中に中尾との交換トレードで西武ライオンズから移籍してきた大久保博元に正捕手の座を奪われ、34試合出場に留まった。は正捕手の座に返り咲くことに成功。5月18日の対広島戦では槙原とのバッテリーで完全試合を達成。6回あたりから誰も槙原に声をかけなくなったが、仲の良かった村田は無理だと思いつつ「狙ってみろよ」と言っていたという。先述の故障のため、大洋戦で1試合6盗塁を許すなど肩は弱かった。また、例えリード通りの球が来なくて打たれても、投手の責任にせず「私の責任です」と常に言う捕手であった。宮本和知の著書である『プロ野球超プレイ笑プレイ』ではその人柄を絶賛され、「当時のエース達もここぞという試合では、信頼できる村田さんを女房役に指名することが多かった」と語られている。一方で、死球を受けて負傷する事も非常に多かった。1994年5月11日のヤクルト戦で西村龍次から頭部へ死球を受け、激昂し西村へ詰め寄ろうとしたが数歩歩いた所で倒れ込み、担架で退場、そのまま病院へ送られる。この後西村への報復死球、グラッデンへのビーンボールなどでたて続けに大乱闘が起こり、この事が危険球退場ルールが作られるきっかけとなったと言われている。4月9日には、斎藤隆(当時・横浜)から顔面に死球を受け、顔面骨折で入院した。見舞いに訪れた元木大介が言葉を無くすほど顔面が変形していたという。また、元木によると、清原和博が冗談のつもりで見舞い用果物としてバナナ1本を用意していったが、あまりの顔の変形のためにバナナを差し出すことができなかったという。本人は早く治すために、リスクは少ないが全快には時間がかかる全身麻酔を取りやめ、激痛が伴う部分麻酔で手術を行うことを要求したという。この時は「俺は顔を見せる商売じゃないんだから別にいいんだよ」と語ったが、さすがに顔の骨をドリルで削る音には耐えられず、後に「今度やるなら絶対に全身麻酔やな」と語っている。には即戦力ルーキーとして阿部慎之助が入団。実質的に阿部の専任コーチとなり、出番は激減。同年、斎藤雅樹・槙原とともに現役引退。スター選手の多い巨人では地味な存在で、通算11年間正捕手を務めながら、前述の有田・中尾・大久保の移籍組のほか、吉原孝介、村田善則、杉山直輝といった生え抜きのライバルが多く、規定打席に到達したことは1回もなかった。しかし投手陣からの絶大な信頼、安定したリード、打率こそ低いもののパンチの効いた打撃を武器にまでマスクを被り、第2次長嶋政権の中心となった。この間チームは1994年、、2000年の3回リーグ優勝し、1994年、2000年は日本一になった。2000年の日本シリーズでは優秀選手にも選出されている。日本プロ野球史上、規定打席に到達せずに年俸1億円プレイヤーとなった野手の第1号である。捕手としての出場試合数「1087」は森祇晶、阿部慎之助、山倉和博に続く歴代4位の球団記録である。からまではバッテリーコーチを務めた後、2004年からはテレビ朝日・スポーツ報知の解説者を務めた。テレビ朝日では主にバックネット裏からの解説を担当し、関西の系列局朝日放送(ABCテレビ)における全国ネットの阪神タイガース対巨人戦中継でも、基本的に自社の解説者しか使わない方針であるが、巨人OBで関西人ということが買われて解説に起用されることがあった。からまでは再びバッテリーコーチをつとめた。からは、もともと打撃優先型捕手だった経験を買われ、打撃コーチを務め、は再度バッテリーコーチへ就任した。バッテリーコーチとしては、投手をリードするにあたって必要以上に裏をかくようなことはせず、投手の特性を把握・依存し、長所を最大限に生かすリードを教えていた。からは再び打撃コーチを務める。5月20日の埼玉西武ライオンズ戦からバッテリーコーチの役割を兼任する。監督の原辰徳は「コーチそのものは全く変わっていない。チームが勝つためという中で、配置を変えたところがあるということ」と説明した。は総合コーチ、からはヘッドコーチを務める。
出典:wikipedia
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