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1812年 (序曲)

序曲『1812年』(じょきょく1812ねん、)変ホ長調 作品49は、ピョートル・チャイコフスキーが1880年に作曲した演奏会用序曲。タイトルの「1812年」はナポレオンのロシア遠征が行われた年である。大序曲『1812年』(だいじょきょく-)、荘厳序曲『1812年』(そうごんじょきょく-)、または祝典序曲『1812年』(しゅくてんじょきょく-)などと呼ばれることもある。チャイコフスキー自身は決して精魂を込めて書き上げた作品とは受け止めてはいなかったものの、歴史的事件を通俗的に描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに喜ばれる作品となった。1880年5月末、チャイコフスキーは一通の手紙を受け取る。差出人は懇意の楽譜出版社であり、手紙には以下の趣旨のことが書かれていた。「ニコライ・ルビンシテインが将来開催される産業博覧会の音楽部長に任命され、ニコライは貴殿を取り立てるべく、以下の3つの題材のうち1つに基づいた作品を書いてもらいたいとのこと。一つは博覧会のための序曲、二つ目はツァーリ即位25周年のための序曲、三つ目は様式はどのようにしてもいいが、正教会の雰囲気を持った救世主ハリストス大聖堂開基のためのカンタータ。収入になります」。チャイコフスキーの個人史の中では、1880年とその前後の時期はバレエ『白鳥の湖』やオペラ『エフゲニー・オネーギン』といった大作の作曲のあとの「なかだるみの時期」に相当する。そのような時期に舞い込んできた頼まれ仕事であったが、チャイコフスキーはすぐに返事を出さなかった。6月23日にようやく返事を出したが、ユルゲンソーンからの手紙に不備があったのか、チャイコフスキーは返事の中で「件の収入をきっちり指定すること」と「期限を定めること」、「声楽曲であるならば、形式や背景について曖昧にせずきっちりと記すべきだ」という意味のことを書き連ねた。さらにチャイコフスキーは10日後の7月3日に出したユルゲンソーン宛ての手紙の中で依頼そのものが不愉快であり、「自分自身が感動しないであろう作品に手を付けることはできない」と突っぱね、この時点で作曲の話は一度は沙汰やみとなる。しかし、一方で8月末から9月にかけてチャイコフスキーは声楽曲の作曲を念頭に置いたのか、ユルゲンソーンを通じてモスクワの蔵書家に古典詩の本を送ってもらうよう要望を出している。9月28日、ニコライからの手紙がチャイコフスキーのもとに届いた。ニコライは手紙の中で、作品は15分から25分程度の物を望んでいることを明らかにする。友人から直の頼みを曲げることはできず、チャイコフスキーは9月30日から11月7日にかけて作品を書き上げた。もっとも、作曲を合間を縫って書いた手紙の中でチャイコフスキーは、相も変わらず不満を並べ立てていた。資金のパトロンであるメック夫人には「凡庸なものあるいは騒々しいもの以外に何が書けるのでしょう?しかし、依頼を断る気にもならない」と書き、弟アナトリーに対しても「ニコライからの依頼が重荷になっているが、責任は果たさなければならない」という趣旨の手紙を送っている。10月中旬になると『弦楽セレナード』の作曲も並行して進められるようになり、この時期のメック夫人やアナトリーへの手紙でも「序曲はおそらく騒々しいものになる。私は特に愛情を持って書いたつもりはない」と書き、ユルゲンソーン社主ピョートル・ユルゲンソーンに対しても「この作品が良いものになるか悪いものになるか、私はためらうことなく後者だと言える」と書いている。10月下旬にチャイコフスキーは急な頭痛に悩まされるも、総譜の仕上げは11月7日に終えた。こうして作品は完成したが、肝心の1881年に件の博覧会は開かれず、3月23日には依頼者のニコライが亡くなった。作品を持て余したチャイコフスキーはエドゥアルド・ナープラヴニークに、作品をサンクトペテルブルクで演奏するよう依頼をするも、ナープラヴニークは時期が来るまでは置いておくことが必要だと返答して、作品が日の目を見る機会はなかなか訪れなかった。1881年も後半になってチャイコフスキーはユルゲンソーンに作品の総譜とピアノ・ソロ版、ピアノ連弾版の3つを送付した。さらに、1881年末から1882年にかけては改訂を行い、1882年4月から5月にかけてメック夫人に宛てて書いた手紙の中でも改訂について触れている。1882年5月、作品はいまだ初演されていなかったものの、ユルゲンソーンからオーケストラ版、ピアノ・ソロ版およびピアノ連弾版の3つの総譜が出版された。1882年8月20日(ユリウス暦8月8日)、『1812年』はモスクワの産業芸術博覧会で開催されたコンサートの一つで、の指揮により初演が行われた。「イタリア奇想曲」とともにプログラムに載ったこの新作は、当時の新聞批評では凡作だと片づけられてチャイコフスキーの予感はこの時点では当たった。翌1883年4月7日にはニコライの兄アントン・ルビンシテインの指揮でサンクトペテルブルク初演が、1885年6月2日にはミリイ・バラキレフの手によってスモレンスク初演が行われた。転機は1887年3月17日に行われたサンクトペテルブルクでの再演で、チャイコフスキー自身の指揮によるこの演奏はチャイコフスキー自身が「完全な成功、大満足」と日記に記すほどの成功を収めた。11月にモスクワでの再演と三度目の演奏がともにチャイコフスキーの指揮で行われたあと、1888年に入って早々チャイコフスキーはヨーロッパ各地に演奏旅行に出かける。1888年2月のベルリンでのコンサートでは当初幻想曲『フランチェスカ・ラ・リミニ』がプログラムに入っていたが、ハンス・フォン・ビューローらが『フランチェスカ・ダ・リミニ』を『1812年』に差し替えるよう強く要望した。チャイコフスキーはベルリンに続いてプラハでの初演を指揮した。その後、1889年1月15日にジョージ・ヘンシェルの指揮でロンドン初演、1893年12月29日にはボストンにおいてエーミール・パウアの指揮によりアメリカ初演が行われた。1899年1月15日にはグスタフ・マーラー指揮のウィーン・フィルによりウィーン初演が行われ、当該演奏会は他にベートーヴェンの「セリオーゾ」のマーラーによる弦楽合奏版の初演、ならびにシューマンの交響曲第1番の同じくマーラー編による初演があった。日本での初演は定かではないが、1917年(大正6年)4月22日に日比谷公園野外音楽堂で行われた山本銃三郎陸軍一等楽長指揮の陸軍戸山学校軍楽隊による公園奏楽で演奏されている。チャイコフスキー自身は曲中に特に標題を記してはいないが、解説書などでは便宜上いくつかの部分にわけた上で、標題をつけて解釈されているものもある。全体としては長大な序奏と自由なソナタ形式の主部、大規模なコーダで構成される。クライマックス付近では楽譜上に大砲 (cannon) の指定がある。初演の際に本物の大砲を使ったかどうかについては、解説書等でも「実際の大砲が使われ」という肯定説や、「チャイコフスキーが生前意図しながら果たせなかった」という否定説など様々あり、結論は出ていない。記録上で最初に大砲を使った「1812年」の演奏としては、年次は不明ながらロンドンのクリスタル・パレスにおけるコンサートといわれているが、詳細は不明である。日本では、1962年5月12日に西宮球場で行われた「第2回2000人の吹奏楽」での演奏が記録に残る古い物の一つである(2年後の第4回、2000年の第40回で再演されている。第40回では大砲は使わなかった)。現在では、ボストン交響楽団の夏の拠点であるタングルウッド音楽祭における演奏等で本物の大砲を使った「1812年」の演奏が聴けるほか、以下のように各地の陸上自衛隊行事でしばしば演奏されている。いずれも空包で演奏される。陸上自衛隊音楽隊が演奏する際は、特科部隊が音楽隊へ編入され、旧式のM101 105mm榴弾砲を撃つ。M101を使わない演奏例として、2007年の富士総合火力演習に於いては、現役装備である155mm口径のFH70を使用したが、発砲音が強力過ぎて演奏者や聴衆の聴覚が麻痺したため、失敗に終わった。2009年北千歳駐屯地創立記念行事においては20榴ことM110 203mm自走榴弾砲による演奏が確認されている。105mm砲などと比べて装填時間が長いため発砲回数は他砲より削減されたアレンジ仕様であった。また、2011年の日本原駐屯地記念式典において、M101 105mm榴弾砲、FH70に加え、74式戦車の戦車砲(51口径105mmライフル砲L7A1)による演奏が実施されている。実際の演奏では105mm砲の斉射後に74式戦車の射撃が実施されている。そのため、この演奏では上述の(野戦)特科部隊だけではなく、機甲部隊(戦車部隊)も編入されている。戦車砲を使用した演奏例は他に、2016年の高知駐屯地創立記念式典において、FH70の2門、74式戦車2両による演奏が行われている。通常のコンサートホールで行われる演奏ではバスドラムで代用される事が多く、この場合は片面の除去やチューニングを狂わせる等の効果音的な楽器加工も行われる。電子楽器の使用に対して前向きな指揮者らによりシンセサイザーが使用されるケースも増えている。2010年10月3日に『題名のない音楽会』第2188回で放送された「描写する音楽~『1812年』人気の秘密」では大砲風に装飾したスモークマシンを使用した。最初の録音ははっきりしていないが、1903年にビクター・グランド・コンサート・バンドが、1909年にが自身のバンドとともにビクタートーキングマシンのために吹き込んだ記録がある。技術の革新が進み電気録音の時代が到来すると、1930年にレオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団、1940年にウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が録音。この曲で特に話題になった演奏は、1958年にアンタル・ドラティがミネアポリス交響楽団、ミネソタ大学吹奏楽団を指揮したもの(米マーキュリー。映画用35mm磁気テープによる高音質録音。1954年に同曲を同じ組み合わせでモノラル録音でレコード化していた)で、大砲は無論実物(青銅製の12ポンド曲射砲。陸軍士官学校からの借り物)であった。その後はドラティ盤に倣って実物の大砲を使う録音が増えた。録音技術がアナログからデジタルに移行しつつあった1978年にはテラークがエリック・カンゼルとシンシナティ交響楽団を起用しデジタル録音を行った。兵器博物館から借り出した当時の大砲と教会の鐘を使用し迫力あるサウンドを作り出した。この録音には「音量を大きくしすぎてスピーカーを壊さないように注意」という注意書きがあり、レコード解説でも調整に関するアドヴァイスが掲載されていた。レコーディングに際しては、その多くがオーケストラの演奏と大砲の音は別々に録音している。両者の音を同時に録音した例としては1990年12月1日にサンクトペテルブルクで行われた、チャイコフスキー生誕150年記念コンサートでのライヴ録音がある(指揮ユーリ・テミルカーノフ、演奏レニングラード・フィルハーモニー交響楽団)。この時、大砲はホール前の広場で撃ったが、オーケストラはホールで演奏していた。また、冒頭の部分(オリジナルはヴィオラとチェロのソロ演奏)を合唱に変えている録音もあり、カラヤン盤(ドン・コサック合唱団)、マゼール盤(ウィーン国立歌劇場合唱団)、デイヴィス盤(タングルウッド祝祭合唱団)、オーマンディ盤(テンプル大学合唱団)、西本智実盤(ユルロフ記念国立アカデミー合唱団)、等が代表的である。

出典:wikipedia

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