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土屋昌続

土屋 昌続(つちや まさつぐ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。諱については『甲斐国志』等で「昌次」としていて土屋昌次の名で知られているが、文書上では「昌続」であることが史料的に確認されている。金丸筑前守(虎義)の次男。金丸氏は清和源氏流武田氏一門で、甲斐守護武田信重の子、金丸光重を祖とする。筑前守は譜代家老で、武田晴信の守役であったという。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおける戦功で桓武平氏三浦氏流土屋家の名跡を継いだとされるが、文書上における初見資料は、永禄9年(1566年)閏8月の長坂昌国起請文の宛先で、この時点で金丸平八郎を名乗っている。なお、永禄4年の第4次川中島の戦いでは、一時上杉勢の攻勢により信玄本陣まで危機に晒されたが、信玄の傍を離れずに上杉勢に応戦し、この戦功により侍大将になったという。(『甲陽軍鑑』に拠れば)昌続は、三枝昌貞(守友)、曽根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国らと「奥近習六人衆」の一人として信玄の傍近くに仕えたという。永禄10年(1567年)8月には、武田家中における義信事件による家臣団の動揺を抑えるために信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文において、担当奉行の浅利信種、吉田信生以外の宛先として、山県昌景や原昌胤、跡部勝資や曽根虎長、甘利信忠らとともに取次を務め、徴収を行っている。以降は信玄側近・奉行衆としての活動が見られ、永禄11年(1568年)初めには土屋姓への改姓が確認される。同年末の今川領国への侵攻(駿河侵攻)に際しては、信玄側近として戦時禁制や朱印状奏者を独占的に務めており、駿河富士山本宮浅間大社や岡部氏、朝倉氏、狩野氏、松木氏など駿河国衆との取次を務めている。西上野侵攻(永禄4年)おいて領国化されていた西上野においては、跡部勝資、原昌胤、曽根虎長とともに上野国衆との取次を務め、昌続は浦野氏や和田氏を担当している。また、信濃領国においては玉井氏、市川氏、海野氏ら東信国衆との取次を担当している。また、対外的には太田氏や梶原氏、里見氏など関東方面の外交を担当している。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、浅利同心衆も相備えとして付けられると同時に甲斐名門の土屋家を継ぎ、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川方の鳥居信之と一騎討ちで首級をあげた。しかし天正3年(1575年)の長篠の戦いで、敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死したという。

出典:wikipedia

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