オスカー・デ・ラ・ホーヤ(Oscar De La Hoya、男性、1973年2月4日 - )は、メキシコ系アメリカ人の元プロボクサー。名の「De La」は英語に訳すと「of the」であり、『Hoyaのオスカー』となる。アメリカ合衆国カリフォルニア州イーストロサンゼルス市出身。アマチュアではバルセロナオリンピックライト級で優勝(金メダル獲得)、プロでは史上初の6階級制覇を成し遂げるなど、アマ時代からエリート街道を驀進してきたその成功ぶりから「ゴールデンボーイ」の異名を持つ。アメリカのみならず世界中のボクサーの中で最も人気のある選手の一人であり、端正なルックスから女性の支持も高い。その活躍の場はリングだけにとどまらず、歌手デビューも果たしグラミー賞にもノミネートされた。プロモーターとしても非常に優秀で、自らプロモーション会社「ゴールデンボーイ・プロモーションズ」を立ち上げ、今ではプロモーション業界の一大勢力へと成長した。彼のもとには多くの優秀なボクサーが集まっている。ボクサーとしては、数々の著名なボクサーとのビッグマッチを経験した世界屈指の人気選手であった。いとこのディエゴ・デ・ラ・ホーヤはプロボクサー。基本に忠実なオーソドックス・スタイルを得意とし、インファイトからアウトボクシングまで完璧にこなすことができるコンプリートファイターである。抜群のスピードとテクニックで相手を翻弄する展開を好むが、一瞬の隙を突く強打も併せ持ち通算KO率は75%を上回る。特に左フックはフィニッシュ・ブローとして幾多のKO劇を演出した。また、コンビネーションも非常に多彩。8歳からボクシングを始める。4年5か月もの間敗戦を経験しないなど、アマチュア時代から既に非凡な才能を見せる。アマ時代の通算戦績は234勝(163KO・RSC)6敗。6敗のうち2敗はシェーン・モズリーに敗れたものだった。1992年、19歳でバルセロナオリンピックライト級に出場。同競技で米国勢唯一となる金メダルを獲得、アマ時代の華麗な遍歴を踏まえて「ゴールデンボーイ(Golden Boy)」とあだ名される。ボブ・アラム率いるトップランク社と契約金100万ドルでプロ入りし、同年11月23日のデビュー戦でラマー・ウイリアムズ(アメリカ合衆国)に初回KO勝ちを収めプロキャリアをスタートさせた。1993年6月7日、元IBF世界フェザー級王者トロイ・ドーシー(アメリカ)に1回終了TKO勝ち(パンチによる目のカットのため)。1994年3月5日、プロ12戦目で16戦無敗のWBO世界スーパーフェザー級王者ジミー・ブレダル(デンマーク)を10回TKOに下し、世界初戴冠。1994年5月27日、20戦無敗のジョルジョ・カンパネラ(イタリア)を3回TKOで下し初防衛の後、階級アップのため王座を返上した。1994年7月29日、元IBF・WBO世界フェザー級王者で奇抜な髪型や派手なパフォーマンスで人気を博したホルヘ・パエス(メキシコ)とWBO世界ライト級王座決定戦を行い2回KO勝ちで2階級制覇を達成した。その後2連続防衛を果たし1995年2月18日、元IBF・WBO世界スーパーフェザー級王者ジョン・ジョン・モリナ(プエルトリコ)に12回判定勝ちを収め3度目の防衛に成功した。1995年5月6日、IBF世界ライト級王者ラファエル・ルエラスと王座統一戦を行い、メキシカンの対抗王者を物ともせず2回TKO勝ちでWBO王座は4度目の防衛、IBF王座獲得に成功した。IBF王座は獲得後即返上した。1995年9月9日、同じカリフォルニア州出身の元WBA世界スーパーフェザー級王者ヘナロ・エルナンデスとの無敗対決を6回TKO勝ちで5度目の防衛に成功(実は自身がWBA世界スーパーフェザー級1位にランクされた際にエルナンデスに指名試合で挑戦出来たが回避しWBO世界スーパーフェザー級王座へ迂回した)。1995年12月15日、同じメキシコ系アメリカ人で元WBC世界スーパーフェザー級王者のジェシー・ジェームズ・レイハに2回TKOで勝利し6度目の防衛に成功。階級アップのため6度守った王座を返上した。1996年6月7日、パウンド・フォー・パウンドにも謳われた「メキシコの英雄」フリオ・セサール・チャベスを相手に、スピーディーなジャブでチャベスの顔面を切り裂き4回TKOで下す。世代交代をアピールし、3階級制覇に成功した。1997年1月18日、WBC世界ライト級を10度防衛した元王者、ミゲル・アンヘル・ゴンザレス(メキシコ)に12回判定で勝利し無敗対決を制し初防衛に成功した。1997年4月12日、高度のディフェンスで「アンタッチャブル」の異名を取り4階級(IBF、WBC、WBA世界ライト級、IBF世界スーパーライト級、WBC世界ウェルター級、WBA世界スーパーウェルター級)を制したWBC世界ウェルター級王者パーネル・ウィテカー(アメリカ)と対戦。ウィテカーの卓越したディフェンス技術に苦戦したが手数で押し切り12回判定で勝ちを収め、4階級制覇に成功した。試合後WBC世界スーパーライト級王座を返上。1997年6月14日、アメリカ合衆国・テキサス州・サンアントニオのアラモドームでデビッド・カマウ(ケニア)と対戦、2回TKO勝ちで初防衛に成功した。1997年9月13日元WBC世界スーパーフェザー級、WBC世界ライト級、WBO世界スーパーライト級王者ヘクター・カマチョ({プエルトリコ)に12回判定で勝利し2度目の防衛。その後WBC世界ウェルター級王座を2連続KOで防衛し1998年9月18日、区切りの100勝目を果たし雪辱を狙う元WBC世界スーパーライト級王者フリオ・セサール・チャベスとリマッチを行い、9回TKO勝ちで5度目の防衛に成功した。1998年11月、デラホーヤが1996年6月に当時15歳だった女の子をホテルに連れ込み強姦したとして告訴される。その後2001年に示談となり解決した。1999年2月13日、前WBA世界ウェルター級王者アイク・クォーティ(ガーナ)と事実上の統一戦(クォーティはこの試合のためにWBAに王座を剥奪される)。ダウンの応酬がある歴史的名勝負の末12回判定勝ちで、6度目の防衛を成功した。1999年5月22日、オーバ・カー(アメリカ)を11回TKOで仕留め7度目の防衛に成功。同年9月18日、8度目の防衛戦にIBF世界ウェルター級王者フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)を迎え、統一戦。無敗のスーパースター対決として注目を集めたが、途中から安全運転にシフトしたデ・ラ・ホーヤが僅差判定で敗れ、WBC王座陥落と共にプロ初黒星を喫した。2000年2月26日、WBC世界ウェルター級1位デ・ラ・ホーヤ(トリニダード戦の敗戦から1位に降格)と同級2位のダレル・コーリー(デラホーヤの降格1位に伴い2位に降格)(アメリカ)による挑戦者決定戦を7回KO勝ち。しかしトリニダードが同級王座を返上したため、デラホーヤが無戦で返り咲いた。またこの試合はIBA世界ウェルター級王座決定戦も兼ねていたためIBA王座を獲得した。同年6月17日、前IBF世界ライト級王者シェーン・モズリー(アメリカ)との初防衛戦に12回1-2の判定で敗れ、再び王座を手放した。2001年3月24日、元IBF世界スーパーフェザー級王者&元WBC世界スーパーライト級王者のアルツロ・ガッティ(カナダ)と無冠戦を行い、5回TKO勝ち。2001年6月23日、WBC世界スーパーウェルター級王者ハビエル・カスティリェホ(スペイン)に挑み、スピードとテクニックで王者を圧倒し12回判定で勝利。シュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズに続く史上3人目の5階級制覇に成功した。なお、カスティリェホは当初大東旭の挑戦を受ける予定だった。2002年9月14日、WBA世界スーパーウェルター級王者フェルナンド・バルガス(アメリカ)と王座統一戦。両者の意地がぶつかり合ったハイレベルの打ち合いは、11回にダウンを奪ったデラホーヤが怒濤のラッシュで試合を決めTKO勝ち。王座を統一した。また試合後にバルガスからは薬物検査で陽性反応が確認された。2003年5月3日、元IBF世界スーパーウェルター級王者ルイス・ラモン・カンパス(メキシコ)と対戦。WBCランカーでKO率は80%とデ・ラ・ホーヤのKO率より高く、戦績は85戦の驚異的な数を誇るカンパスに初回にボディアッパーからの右ストレートを当てるといきなり歴戦のカンパスがふらついた。まともに得意の接近戦にすることが出来なくなったカンパスに3回にはコンビネーションを浴びせるとカンパスは完全にペースを失いマウスピースを3回吐き出した。5回終了間際にはコンビネーションを浴びせてストップ寸前まで追い詰めた。6回にはまたも鋭いコンビネーションを浴びせるもカンパスはトリニダードからダウンを奪ったショート左アッパー、ラウル・マルケスの視界を塞いだ右ショートフックとショートコンビネーションで反撃されるもIBF王座時代のような切れ味の鋭さはなく、さらに攻勢を強めカンパスがこの試合4度目のマウスピースの吐き出しで遅延行為で減点させた。7回にはこの試合5度目のマウスピースを吐き出してしまい、コンビネーションを浴びせクリンチした所でカンパスのセコンドがレフェリーにストップを要請した。7回2分54秒TKO勝ちを収めWBA王座は初、WBC王座は2度目となる防衛にそれぞれ成功した。なおカンパスはこの試合がキャリア最後の世界タイトル挑戦となった。カンパスはその後2016年まで現役を続けたが1度もランキングに復活できず表舞台から姿を消した。この結果デ・ラ・ホーヤが事実上の引導を渡す結果になった。同年9月13日、既にWBC世界ウェルター級王座を失っていたシェーン・モズリーと再戦。物議をかもす判定の結果の末敗戦し両王座から陥落した。2004年6月5日、20戦無敗のWBO世界ミドル級王者フェリックス・シュトルム(ドイツ)と対戦。シュトルムの固いガードの前に苦戦するも手数で押し切り僅差判定で下し、史上初の6階級制覇に成功した。2004年9月18日、シュトルム戦以前から内定していたビッグマッチ、WBA、WBC、IBF世界ミドル級3団体統一チャンピオンバーナード・ホプキンス(アメリカ)と史上初の4団体王座統一戦にミドル級の規定体重を2ポンド下回る158ポンドのキャッチウェイトで対戦。体格で勝るホプキンスに手数で対抗したが、徐々に圧力に押され、9回左ボディ一発でダウン。プロ初のKO負けを喫し、王座から陥落した。2006年5月6日、20か月ぶりの実戦でWBC世界スーパーウェルター級王者リカルド・マヨルガ(ニカラグア)と対戦。ブランクから限界説も囁かれていたが、初回にダウンを奪うなど試合を有利に進め、6回TKO勝ちを収め3年ぶりに王座返り咲きに成功した。また10度目の王座戴冠ともなった。2007年5月5日、史上初めて4階級を制した無敗のフロイド・メイウェザー・ジュニア(アメリカ)(WBC世界スーパーフェザー級、WBC世界ライト級、WBC世界スーパーライト級、IBF、WBC、IBO世界ウェルター級)との「世紀の一戦」において、1-2の12回僅差判定で敗れる。メイウェザーは5階級制覇を達成し、即日王座返上を表明。2007年9月~12月、デ・ラ・ホーヤが赤いハイヒールを履き、全身網タイツなど女性もの下着を着用した写真が数枚ネット上に流出する。この写真を撮影したとされるストリッパーの女性がデラホーヤから写真を公開しないよう強制され精神的苦痛を受けたとして総額1億ドル(110億円)の損害賠償請求裁判を起こす。デラホーヤは写真はデジタル加工された偽物であるとしていた。2008年5月3日、元IBF世界スーパーフェザー級王者のスティーブ・フォーブス(アメリカ)と対戦し、3-0の判定勝ちを収めおよそ1年振りとなる試合を白星で飾った。2008年12月1日、自身の功績が認められロサンゼルスのステープルズ・センターの前に銅像が建てられた(銅像のモデルになった2006年5月6日のリカルド・マヨルガをKOした後にコーナーの上に上ってファンの歓声に応える場面)。2008年12月6日、アメリカ・ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナでマニー・パッキャオ(フィリピン)とウェルター級12回戦というノンタイトルながらドリームマッチが実現。試合前の予想はデラホーヤ圧倒的有利だったが、試合は序盤から精彩を欠いたファイトでパッキャオの動きに全くついていけず、7回にはパッキャオの攻撃でストップ寸前に陥る(この回の採点はジャッジ三者とも8-10)など一方的な展開の末8回終了TKO負けを喫した。この試合がデラホーヤのラストファイトとなった。2009年4月14日、体力の衰えなどから現役引退を表明。2011年4月8日に行われたワールドプレミアムボクシングThe REAL13 副題(東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ)ではVTRながら日本にエールを送った。2011年8月30日、近年自身が重度の薬物(コカイン)、アルコール依存であることを発表し5月21日からリハビリ施設に入っていることを公表した。飲酒は幼少期の9歳頃から行い、試合前に恐怖心を紛らわすために飲酒をエスカレートさせていったとしている。引退試合となったパッキャオ戦でも体力の衰えもあり「勝てるわけがない」と思って飲酒と薬物に手を出していたという。その後のインタビューで薬物、アルコール依存症が辛く自殺を考えたこと、浮気をしており一時期妻と別居していたことを語っている。2011年9月上旬、薬物とアルコール依存を告白したのに続き「もう嘘はつきたくない、あれは自分だった」と2007年に流出した女性下着を着用した自身の写真が本物であったことを認め、当時はコカインとアルコールの飲用で気分が高揚した状況下にあったと弁明した。2013年9月10日、自身のゴールデンボーイ・プロモーションズが主催するフロイド・メイウェザー・ジュニアvsサウル・アルバレスのプロモーション活動を精力的にこなしていた矢先、試合4日前に緊急でリハビリ施設へ入り療養に専念することが発表された。2015年6月29日、現役復帰について五分五分であると復帰する考えがあることを一旦は公表するが、家族と話し合い自分を見つめ直した結果、現役復帰を断念したことを発表した。
出典:wikipedia
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