フアナ(Juana, 1479年11月6日 - 1555年4月12日)は、カスティーリャ女王。結婚後から精神異常が顕著となり、特に夫と死別して以後さらに悪化したため、約40年の長期間にわたり幽閉された。この間、公文書のサインは女王フアナとカルロス1世の二つのサインが添えられ、名目上の共同統治者であり続けた。長男カルロス1世の統治下でスペイン帝国は隆盛を極めることとなる。「狂女フアナ」(Juana la Loca)という異名でも知られ、芸術作品の題材ともなっている。妹のカタリナはヘンリー8世 (イングランド王)妃(英語名:キャサリン)。1479年、カスティーリャ女王イサベル1世の夫で共治王であるフェルナンド2世がアラゴン王に即位し、カスティーリャ・アラゴン連合王国(スペイン王国)が成立する。フアナが2人の間の次女として生まれたのはこの年である。フアナは両親の元で育てられ、知性豊かで信心深く真面目な少女に育つ。1496年にハプスブルク家のマクシミリアン1世の長男であるブルゴーニュ公フィリップ(美公、端麗公)と結婚した。兄のアストゥリアス公フアンはフィリップの妹マルグリット(マルガリータ)と翌1497年に結婚しており、いわゆる二重結婚であった。美公という通称通り、金髪碧眼の美しい姿にフアナは惹かれ、またフィリップにとってもカスティーリャ人のフアナは初めて見るタイプの女性であり、情熱的に愛し合い、2男4女をもうける。しかし元来真面目なフアナは夫の不実を許すことが出来ず、人目をはばからず激昂することもしばしばで、フィリップの心は離れていった。夫への猜疑心へ駆られ、次第にフアナの精神状態は不安定になっていった。当初、この縁組は両家の絆を深めるという以上のものではなかった。しかし1497年、フアナの兄フアンが結婚から間もなく夭折、残された妻マルガリータは死産した。さらに1498年にはポルトガル王マヌエル1世(後に妹マリア、長女レオノールの夫にもなった)の妃となっていた姉のイサベルが、1500年にはその子ミゲルが相次いで亡くなり、フアナがカスティーリャの王位継承者に指名された。1501年11月、フアナは夫フィリップとともにカスティーリャに渡る。しかしフィリップはスペインの乾ききった土地と謹厳で信心深い人々を嫌い、翌年には臨月の妻を一人カスティーリャに残し、故郷のフランドルに帰ってしまった。フアナはショックを受け、病状が悪化する。子どもの養育は困難な状態で、長男カルロス(のちのカルロス1世=皇帝カール5世)の他、レオノール、イサベル、マリアはネーデルラント総督となっていたかつてのフアナの兄嫁マルグリットに、次男フェルナンド(後の皇帝フェルディナント1世)はフアナの父フェルナンド2世に、それぞれ育てられた。その出産後、フアナは一度フランドルに戻る。カスティーリャ女王として即位した後に生まれた四女のカタリナ(妹マリアとマヌエル1世の息子ジョアン3世と結婚)のみがフアナの手元に留め置かれた。1504年11月にイサベル1世が死去したため、フアナは再度カスティーリャに渡る。1506年1月7日、フリシンゲン港より海路で出発する。歴史家レイモン・ド・ブランカフォールによれば、カレー海峡付近で嵐に遭った折、当時の習慣によって同乗させていた売春婦たちを積荷と共に海に流そうとしたとき、フアナはと言い放ったという。帰国後、フアナはカスティーリャ王位に就いた。夫フィリップは「カスティーリャ王フェリペ1世」を名乗り、妻との共同統治を主張するが、コルテス(議会)では「王の配偶者」(王配)としか認められなかった。1506年、フィリップがブルゴスで突然死去する(毒殺説もある)。衝撃を受けたフアナは完全に正気を失った。夫の埋葬を許さず、その棺を運び出して馬車に乗せ、数年間カスティーリャ国内をさまよい続けた。王室礼拝堂のあるグラナダを目指したとも言われている。1508年、フアナは父王によってトルデシリャスのサンタ・クララ修道院に隣接した城館に幽閉された。女王は政治の場から忘れ去られ、「狂女」(La Loca)と呼ばれる。ブルゴーニュで出産した4子の記憶はないが、末娘のカタリナに対しては異常な執着を見せ、カタリナの惨状を見た長子カルロスが彼女を脱出させるとフアナは狂乱して暴れたためカタリナはトルデシリャスに戻されたとされる。1516年には父フェルナンド2世も死去し、長男カールがブルゴーニュから迎えられ、カスティーリャとレオンを統合したスペイン王カルロス1世として政務を代行することになる。ここからスペイン・ハプスブルク朝の時代を迎えることとなる。ブルゴーニュ育ちのカルロスと側近に対する反発や、スペイン育ちの次男フェルディナントを推す背景もあり、1520年、コムネロスの反乱が勃発する。この時、反逆者たちはフアナと会談し、女王の承認を得て正当性を主張しようとしたが、フアナは全く政治に関心を示さず、以後反乱は自然瓦解に向かい国王軍の勝利で終結した。フアナは40年以上の幽閉生活の末、1555年に生涯を閉じたが、正式には崩御するまで退位を拒み、女王であり続けた。また、カルロス1世は、遠征からの帰国のたび母への見舞いを継続し続け、存命であることに安堵していた。サインをする際も、最期まで「ヨ・ラ・レイナ」(Yo la reina:我、女王)としていた。政治的には母譲りの芯の強さを発揮し、「王は我のみ」(solo yo)と宣言して、無能な夫とは対照的であったと(その統治能力の有無は別として)評価する向きもある。1555年4月12日、フアナが崩御すると、すでに老境に入っていたカルロス1世に強い精神的打撃を与え、同年10月、カルロス1世は金羊毛騎士団長の職やネーデルラント統治を息子(フアナの孫)フェリペに禅譲し、隠棲に入ることとなる。また、フィリップが亡くなってすぐに、イングランド王ヘンリー7世から再嫁の話があり、フアナもいったんは心を決めかけたものの、父フェルナンド2世が政治的思惑から反対、ヘンリー7世が間もなく亡くなったこともあって実現はしなかったという経緯がある。[1]はエンリケ2世 (カスティーリャ王)の弟ファドリケの子孫。[3]は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、ペドロ1世の次女コンスタンサの一人娘。よって、[2][3]の結婚は、[2]の祖父エンリケ2世 (カスティーリャ王)(トラスタマラ朝の祖)が異母弟で嫡出子のペドロ1世(ボルゴーニャ朝)から王位を簒奪しており(第一次カスティーリャ継承戦争)、両家の合一と和解という歴史的意義がある。[4]はジョアン1世 (ポルトガル王)の王子で、兄にドゥアルテ1世やエンリケ航海王子、姉に、夫フィリップの曾祖母であるイザベルがいる。また[4]たちの母はフィリッパは、[3]の異母姉である。[5]はジョアン1世 (ポルトガル王)の庶子アフォンソ1世 (ブラガンサ公)の娘。よって[4]と[5]の結婚は叔姪婚となる。
出典:wikipedia
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