富士 信忠(ふじ のぶただ)は戦国時代の武将、富士氏当主。大宮城(富士城)の城主。富士山本宮浅間大社の富士大宮司である。兵部少輔・相模入道を称し、今川氏家臣であった。大宮城主として武田勢と交戦を繰り返した。今川家のお家騒動である花倉の乱の際には、栴岳承芳(今川義元)派を支持したという。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを契機に今川領国では動揺が起こり、駿河の国人は今川氏から離れていくものも居た。一方富士氏は今川方に留まり、永禄4年(1561年)7月には今川氏真より大宮城城代に任命されている。今川氏と同盟関係にあった武田氏が同盟を破棄し今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、武田勢は富士氏が城主を務める大宮城を攻撃するようになる。富士氏は今川氏真を庇護した北条氏の支援を受けつつ武田方に抵抗し、永禄11年(1568年)に北条氏政は富士信忠に判物を発布している。また永禄12年(1569年)には北条氏康により信忠宛ての文書が発布されるなど、後北条氏と関係を密にしていた。その後も後北条氏は富士氏の軍功を賞するなどしているが、永禄12年6月の武田信玄本隊による攻撃により大宮城は開城した。その後も信忠は北条方に留まり続け北条方の蒲原城において武田勢と交戦し、北条氏は富士上方(現在の静岡県富士宮市一帯)の支配権を認める書簡を信忠に送るなどしている。元亀2年(1571年)に今川氏真により暇を与える旨の判物が嫡子である信通に発給されると、富士氏は今川・北条勢から離れることとなる。以後富士氏は武田氏に帰属し、元亀3年(1572年)に信忠は甲府へ出仕している。大宮城代には武田家臣の原昌胤が任じられ、富士郡支配は昌胤や市川昌房が務めた。
出典:wikipedia
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