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小林雅英

小林 雅英(こばやし まさひで、1974年5月24日 - )は、元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。山梨県大月市出身。愛称は「コバマサ」。千葉ロッテマリーンズ時代は「幕張の防波堤」の異名を取った。2013年からオリックス・バファローズの二軍投手コーチを務め、2015年からはロッテの一軍投手コーチとなった。山梨県立都留高等学校から将来は高校野球の指導者になろうと日本体育大学へ進学。首都大学リーグ通算29試合登板し16勝7敗、防御率2.40。最優秀投手1回、ベストナイン2回受賞。卒業時にプロへ進む同級生を見て、自分も目指そうと東京ガスへ入社。2年のうちに声がかからなければ野球をやめるつもりだったが、2年目にスカウトの水谷則博に見出されて1998年度のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた。の後半戦から先発として起用され、5勝5敗の成績を残した。前半戦などでのリリーフ起用を含めれば46試合に登板している。も序盤で3試合に先発したがいずれも敗戦投手になったため、山本功児によって中継ぎに配置転換され、4月25日の対日本ハムファイターズ戦に無死満塁で登板し、そこを無失点で抑え自信をつけた。シーズンでは不調のブライアン・ウォーレンと入れ替わりで抑えに固定され11勝6敗14セーブの好成績を挙げる。7月2日の対オリックス・ブルーウェーブ14回戦で、小林の2球目が暴投となり、三塁を狙った一塁走者のイチローがアウトになった。その直後にチームが勝ち越したため、プロ野球史上初となる「打者0人」での勝利投手となった。5月25日の対日本ハムファイターズ戦から、5月30日の対福岡ダイエーホークス戦にかけて、プロ野球新記録となる6日間連続セーブをあげて月間MVPに選出された。しかし、6月までは0勝0敗21S・防御率0.78だった成績も、7月以降は0勝4敗12S・防御率11.42と打ち込まれ、最終的には防御率4.33に終わる。この年はリーグ2位の33セーブを挙げ、オフにはニュース番組のゲストに招かれることや、6日連続セーブのエピソードが寒川一之の「小林雅英物語」として漫画化されるなど、知名度を上げた。5月21日の対日本ハムファイターズ戦から、8月5日の福岡ダイエーホークス戦まで17試合連続セーブのパシフィック・リーグ新記録、さらに10月17日の対大阪近鉄バファローズ戦まで、33試合連続セーブポイントのプロ野球新記録を樹立するなど、44試合で37セーブ・防御率0.83の好成績を残した。も好調を維持し、44試合で33セーブの好成績を残す。からボビー・バレンタインが監督に就任すると投球回数が増加。西武の中島裕之に勝ち越しの満塁ホームランを浴びる等、救援失敗も目立ったが、アテネオリンピック野球日本代表に選出されたのを機に、変則モーションの矯正に取り組むと、日本代表の守護神として銅メダル獲得に貢献した。だがシーズンでの成績は序盤に安定感を欠いたこともあり、8勝5敗20セーブ防御率3.90の成績で終わった。5月18日の対広島東洋カープ戦において、プロ野球史上4人目の通算150セーブを達成(通算312試合登板)した。同年は安定感を取り戻し、2勝2敗29セーブ防御率2.58の成績を残し、最多セーブ投手を獲得。第4戦で4点リードを追いつかれるが、10月16日のプレーオフ第2ステージ第5戦・対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!ドーム)で胴上げ投手となる。そのまま日本シリーズ(対阪神タイガース戦)でも第4戦に登板し、胴上げ投手となった。11月13日のアジアシリーズ(対三星ライオンズ戦)でも最後の打者を三振に打ち取って3度目の胴上げ投手となった。6月7日の対中日ドラゴンズ戦で登板し、日本プロ野球初の6年連続20セーブを達成。セ・パ交流戦でも3勝0敗13Sの成績で交流戦MVPを獲得。8月18日の対北海道日本ハムファイターズ戦では史上3人目の通算200セーブを達成するが、この試合以降は一度もセーブを挙げられなかった。最終成績は6勝2敗34セーブとセーブ数は前年を上回った。8月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦でセーブを記録し、自己記録を更新する7年連続20セーブを達成。しかし、8度の救援失敗から守護神転向後初となる降格を経験した。同年11月2日、周囲から動向を聞かれるわずらわしさを避けようとFA権行使を宣言した。2007年11月20日にクリーブランド・インディアンスと2年契約を交わす。契約内容は2008年と2009年各300万ドル、契約破棄の場合は25万ドルの、2年計625万ドルで、3年目については球団側が325万ドルの選択権を持つものだった。4月26日の対ニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、チームのサヨナラ勝ちによってメジャー初登板・初勝利を挙げた。1年間を通じて降格することなく在籍し、主に中継ぎとして57試合に登板して4勝5敗6セーブ・防御率4.53を記録。は前年の活躍から一転して10試合の登板・防御率8.38と不振に陥り、5月16日に降格した。その後、インディアンス傘下3Aのコロンバス・クリッパーズに合流してメジャー復帰に向けて調整していたが、7月18日にインディアンスから契約を解除された。メジャーの他球団からのオファーを待つが、動きがなかったため帰国している。2009年12月1日、年俸5000万円プラス出来高1億円の1年契約で読売ジャイアンツへの入団が決定。背番号も30となった。スコアボードの表記は「雅」のない「小林」となった。は経験豊富なリリーフとして期待され、3月28日の東京ヤクルトスワローズ戦で7回に日本復帰後初登板するも2失点とほろ苦い復帰登板となった。4月3日の広島東洋カープ戦では9回途中にマーク・クルーンの後を受け登板し、ピンチを脱し復帰後初セーブを挙げた。だがこれが現役最後のセーブとなった。しかし、その後は抑えのクルーンが故障離脱しても不安定な投球が目立ち、抑えで起用されることはなかった。5月2日に2軍落ちした。7月7日に再び1軍登録されるも不調で4日後の11日に登録抹消されると中盤以降の優勝争いが熾烈になっても1軍に昇格することができず、最終的に12試合の登板で1セーブ・防御率5.14と期待を大きく裏切る成績となってしまった。10月29日に戦力外通告を受けた。その後、11月10日の12球団合同トライアウトを受験した。ここで最速145km/hを計測し、打者5人を無安打に抑える好内容を見せたことからオリックス・バファローズが獲得に動き、11月19日に契約した。背番号は34。は、開幕1軍入りを果たしたが前年以上に安定感を欠き、5月2日に2軍落ちすると一度も1軍に昇格できなかった。最終的に6試合の登板に留まり、防御率13.50と結果を残せず、10月に戦力外通告を受けた。11月1日に現役引退が発表された。シーズンからオリックスの二軍育成コーチに就任し、より二軍投手コーチに就任。松葉貴大・佐藤達也の育成に貢献した。10月1日に球団から退団が発表された。10月16日に古巣であるロッテの一軍投手コーチ就任が決まった。

出典:wikipedia

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