黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(投手)。広島東洋カープ所属。父は元プロ野球選手の黒田一博。父・黒田一博が監督を務めたボーイズリーグのチーム・オール住之江に所属。上宮高から東都の専修大学へ進学。チームは4年生春から東都大学1部リーグに昇格し、1996年春、同年から大学野球でのスピードガン場内表示が始まった神宮球場において、球速150km/hを計測している。1部リーグ通算6勝。、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。背番号は15。スリークォーターからメジャー時代の平均球速91.9mph(約147.9km/h)の速球(シンカー、フォーシーム)と平均球速86.7mph(約139.5km/h)のフォーク(スプリッター)、平均球速83.8mph(約134.9km/h)のスライダーを武器にする本格派右腕で、稀にカーブやカットボールも投げ分ける。中でもスライダーとフォークはメジャーでも高い評価を得ており、特にフォークはメジャー時代にはダン・ヘイレンのスプリッターと共に「現役最高のスプリッター」と評された。最速はメジャー移籍前の広島在籍時に計測した157km/h。また、広島復帰後からカットボールの投球割合を増やしている。メジャー移籍前後で投球スタイルを変えており、広島時代にはフォーシームを主体としていたが、ドジャースに移籍する数年前から「ツーシーム系を内に、スライダー系を外に、フォークで高低をつける。打者が狙っている球を投げ、打たせて取ることが理想」という理想図を描き、移籍後はフォーシームをほとんど投げずツーシーム系主体の投球となった。そのため広島時代に投げていた最速150km/hを越えることもあるシュートを、右打者の膝元に沈ませる速球・シンカー(握りはツーシーム)に進化させたという。その他、スライダーに関しても2008年のシーズン序盤に痛打を浴びる事が多かったために握りを変えたという。広島時代(メジャー移籍前)には完投数リーグ1位の年が6度もあるタフネスぶりから「ミスター完投」の異名を持った一方で、完封数は年に1回程度。11年間で74完投を記録したが、完封に関しては14回に留まった。黒田自身も完投にこだわりを持っていたが、メジャーでプレーするようになってからは「いくら1試合を完封しても、次の登板でノックアウトを喫してしまってはチームにとって意味がない。それよりも7回、7回を連続してきっちり投げた方がチームへの貢献度が高くなる。この場所で完投にこだわることは自己満足に過ぎない」と思うようになったという。OBからの評価も高く、江川卓は自著で「調子がいい時の彼のストレートは、ど真ん中に放っても打たれない」、2006年7月2日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で完封勝利を収めた際には、中日監督の落合博満から「今日(3安打完封)の黒田は俺が現役の時でも打てない。だからうちの選手が打てる訳がない」と絶賛された。フィールディングの評価も高く、2008年には35のアシストを記録した。1999年の甲子園での阪神戦では満塁で決勝のセーフティバントを成功させたことがある一方、打撃は苦手で連続無安打の記録を作ったこともあり、2010年に開幕から39打席無安打を続けた際には地元紙から「いくらピッチャーでもひどい」と書かれたことがある。上記のように高い評価を得る一方で、好投した試合での打線の援護に恵まれないことで有名であり、先述した通りドジャース時代には毎年のように好投しながらも援護に恵まれず、監督のジョー・トーリからも同情されていた他、ESPNからも「援護が少なく、勝利数が伸びなかったため過小評価されている」と指摘され、2006年の広島時代には最優秀防御率でありながら援護率で最下位を記録している。ヤンキース時代も他のローテーションピッチャーと比べて好投した試合での援護が著しく少なく、メディアから「黒田は弁護士を雇ってチームメイトを無援護で訴えるべきだ」と書かれたこともあった。
出典:wikipedia
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