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マルティニーク

マルティニーク(Martinique)はフランスの海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する一島。海を隔てて北にドミニカ国が南にセントルシアが存在する。県都はフォール=ド=フランス(Fort de France)。面積1,128平方キロ、人口407,000人(2011年)、時間帯はUTC-4、国番号は596で、ドメイン名は.mqである。「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は島に住んでいた、カリブ人の言葉でマディニーナ(Madinina、花の島)、またはマティニーノ(Matinino、女の島)がマルティニークの語源になっている。マルティニークは1502年にジェノヴァ人の航海者、クリストファー・コロンブスの第四次航海により「発見」されたが、金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続けたこの島は暫くヨーロッパ人の侵入を退けた。しかし、1635年にセント・キッツ島を拠点にしたフランス人のブラン=デスナンビュックが上陸した。既にイギリス人による入植が行われていたが、これによってフランスが主導権を握り、1658年にフランス軍は抵抗する島民を虐殺、島民は絶滅したといわれる。島の植民地化が進むと、マルティニークはアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビプランテーション農業で経済的に発展し、大西洋三角貿易によってサン=ドマングやグアドループと共にフランス本国に多大な利益をもたらした。この時期に、後にエメ・セゼールやフランツ・ファノンが批判した、肌の色によって全ての序列が決定される階層社会が成立した。18世紀に入ると七年戦争の最中の1762年に一時イギリスによって占領されたが、1763年にパリ条約によりフランスはカナダと引き換えに島を確保した。アメリカ独立戦争が始まると、1780年に英仏の間でマルティニーク島の海戦が行われた。1789年にフランス革命が勃発すると、1791年にはサン=ドマングの黒人大暴動に続いてマルティニークでも黒人奴隷は自由を求めて反乱を起こしたが、間もなく王党派のグラン・ブラン(大白人)によって奴隷反乱は鎮圧され、王党派は共和制フランスを裏切ってイギリスに帰属し、1794年から1802年のアミアンの和約までイギリス軍の占領が続いた。1793年にフランスの国民公会ではジャコバン派とロベスピエールによって奴隷制の廃止が決議されていたが、1802年にマルティニークがフランスに返還された後に、マルティニークのグラン・ブラン出身のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚していたナポレオン・ボナパルトは、サン=ドマングの再征服を行ってトゥーサン・ルーヴェルチュールを捕らえ、カリブ海の植民地での奴隷制の復活を考えた。ジャン=ジャック・デサリーヌによって指導されたハイチ人はフランス軍を破って1804年にハイチは独立を達成したが(ハイチ革命)、ナポレオンはその他の西インド諸島の植民地での奴隷制を再導入し、マルティニークでも奴隷制が復活した。1848年2月にフランス二月革命によって第二共和政が樹立されると、4月にはヴィクトル・シュルシェールによって再び奴隷制の廃止が実施されたが、奴隷制廃止の時期が引き伸ばされたため、黒人奴隷による暴動が勃発した。その後ナポレオン3世の第二帝政下で黒人選挙権は失われたものの、普仏戦争の敗戦によって第三共和政が成立すると、以降は「文明化の使命」の概念により、黒人への選挙権の復活、植民地県議会の開設、徴兵制の導入など、政治面、文化面の双方においてマルティニーク人のフランス国民への同化政策が進められた。1902年にはプレー火山が爆発、火砕流で当時の県庁所在地だったサン・ピエールで住民3万人が死亡、街は壊滅し、島の首府がフォール・ド・フランスに移転した。第二次世界大戦が勃発し、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、マルティニーク政府はヴィシー政権に帰属し、島にはヴィシー政権の水兵が上陸した。大戦中の島ではナチズム風の人種主義が露骨な形で顕れたが、1944年にシャルル・ド・ゴールの自由フランスに復帰した。第二次世界大戦でもフランツ・ファノンのように、マルティニークからも多くの兵士が出征し、アルザスの戦いなどでフランスのために戦った。第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代を迎えると、1945年にフランス共産党から立候補した黒人文学者で教育者のエメ・セゼールがフォール市市長に当選した。かつてネグリチュード運動を主導し、フランスの「白い普遍」に対する反逆者だったセゼールは、以後フランスへの同化政策を採らざるを得なかった。1946年にマルティニークはフランス海外県となった。セゼールは自治を求めたが、ド・ゴールにとって、「海の上の小さな埃」に過ぎなかったマルティニークに自治は認められず、1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニークは同化されるべき海外県との扱いから脱することは出来なかった。2002年にはユーロの流通が始まった。フランスの海外県で知事はイヴ・ダソンヴィルである。マルティニーク海外県はフランス国民議会に4名、元老院に2名の代表を送る権利を持っている。4つの郡と45の小郡、34のコミューンがある。山がちな火山島で、島の北部に活火山のプレー山(またはペレ山、標高1397m)がある。砂糖、ラム酒、バナナ、パイナップルなどの農業と観光業が経済の中心である。しかし、住民を養うには到底足りるものではなく、食糧や日用品の多くをフランス本国からの輸入に頼っているため物価水準が高い。また、失業率も高く、そのために多くのマルティニーク人がフランス本土に出稼ぎしている。ドミニカ国以外の全ての西インド諸島諸国に共通するように、元いた先住民のカリブ人は、ヨーロッパ人によって虐殺され現在は全滅しており、純粋な先住民は現在1人もいない。アフリカから奴隷として連れて来られた黒人と、クレオール人(ムラート)が多く、フランスの白人や華人(華僑)、インド人(印僑)、レバノン、シリア、パレスチナから移民したアラブ人なども少数存在する。住民の多くはフランス語とクレオール語を話すが、クレオール語には低い位置が与えられている。宗教はカトリック信者が多い。260,000人のマルティニーク出身者がフランス本土で暮らし、多くはパリ地域に居住している。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポール・ゴーギャンは一時マルティニークに滞在していた。19世紀後半のマルティニークでは、ヨーロッパとアフリカのダンス音楽が融合し、幾つかのダンス音楽が生まれた。そのうちの一つであるビギンはアレクサンドル・ステリオなどの活躍により、1920年代から1930年代にかけてフランス本土で隆盛を見せた。ビギンは後の1980年代にも、カリなどにより、再び脚光を浴びた。その他のジャンルとして、1960年代後半に発生したカダンス、カダンスの流れを引き継いだジャンルであるズーク、農村部の伝統音楽であるプレアー、プレアーの構成に格闘技を伴うダミエなどのジャンルが存在する。文学においては、セネガルのレオポルド・セダール・サンゴールと共にネグリチュード運動を担い、『帰郷ノート』(1939年)、『植民地主義論』(1950年、1955年)で知られるエメ・セゼールや、セゼールの教え子であり、アルジェリア革命にアフリカ革命を見出し、ポストコロニアリズムの先駆者となった、『黒い皮膚・白い仮面』(1952年)、『アフリカ革命に向けて』(1964年)で知られるフランツ・ファノン、同じくセゼールの教え子であり、ヨーロッパでもアフリカでもないアンティル諸島に特有の心性として、アンティヤニテ(アンティル性)を見出したエドゥアール・グリッサン、アンティヤニテを批判してより広い視野を持って世界を見ることを訴えるクレオリテを主張し、『クレオールとは何か』(1991年)などで知られるパトリック・シャモワゾーやラファエル・コンフィアンの名が特に挙げられる。

出典:wikipedia

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