大西 康雄(おおにし やすお、1947年10月22日 - )は、日本のヤクザ。指定暴力団・六代目山口組若中、大西組組長、元後藤組副組長、元竹中組若頭。兵庫県加西市出身。昭和22年(1947年)、兵庫県加西市に出生。高校中退後に18歳で三代目山口組系竹中組幹部の若衆となり、竹中組本部で4年半の部屋住み修業を行った。昭和45年(1970年)、自身の親分が竹中組から破門されたのを機に、竹中組・竹中正久組長から盃をもらい、竹中組若中となった。昭和47年(1972年)、竹中組若頭補佐に就任。昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会・林喜一郎副会長、忠政会・大森忠明会長、松正会・山本真喜夫会長らを招待して、大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。昭和60年(1985年1月26日午後9時過ぎ、竹中、山口組若頭・中山勝正、山口組南組・南力組長は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫に銃撃された。南はほぼ即死、中山も4時間後に死亡した。竹中は銃弾3発を受けたが、自力で自分の車に乗り込み、運転手は南組事務所に向かいながら、無線で救急車の手配を急がせた。南組事務所から、大阪警察病院に搬送された。同年1月27日午後11時25分、竹中が死去。同年12月、竹中組(組長・竹中武)の若頭に就任した。昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。平成元年(1989年)4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西が五代目山口組組長立候補を取り下げ、渡辺の山口組五代目擁立が決まった。同年4月27日、山口組直系組長会で、中西が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明。渡辺の五代目山口組組長就任が決定した。同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺、岸本才三、近松博好が、武を山口組に留め置くことを確認し、武の連れ戻しを協議した。しかし、山口組若頭補佐・宅見勝は武の連れ戻しに反対で、山口組心腹会・尾崎彰春会長に依頼して、岸本に武連れ戻しを断念させた。渡辺も宅見の考えに同調し、武の連れ戻しは白紙となった。同年5月10日には山口組緊急執行部会で、宅見の山口組若頭就任が内定。武は緊急執行部会を欠席した。同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。武、矢嶋、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西を最高顧問に据えた。英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲男は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には宅見の意向が強く反映された。同年6月4日、岸本、西脇、神戸市の佐藤組・佐藤邦彦組長が武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。武は竹中の位牌と仏壇を受け取った(通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する)。同年6月5日、山口組定例会で武、矢嶋、牛尾、森田の山口組脱退が発表された。同年6月25日、武は、中西、石田、倉本、前田の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。これを切っ掛けに山竹抗争が勃発した。その後、竹中組から脱退した。五代目山口組 後藤組・後藤忠政組長が、後藤組副組長に据えた。兵庫県姫路市を本拠にした。平成4年(1992年)2月、渡辺芳則は、大西組・大西康雄組長に盃を与え、山口組直参にした。平成20年(2008年)の7月に病気を理由に引退。大西組は解散となり、組織の継承はなかった。
出典:wikipedia
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