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南関町

南関町(なんかんまち)は、熊本県の北西部に位置する山に囲まれた町。町名は古代よりこの地に置かれた関所に由来する。近隣の玉名市等と合併協議していたが、2004年11月断念した。熊本県の西北端部に位置し、北部から西部にかけて福岡県と接している。熊本市から北西へ約50km、福岡市から南へ約70kmの距離である。町の北から南東方向へ九州自動車道が通る。この地域に官道(現在でいう国道)の重要な駅(大水駅)が置かれたとされている。927年完成の『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条によれば、この地域に宿駅が置かれたとされている。平家物語の中に、南関町の関所が書かれた一節がある。「肥後国、菊池の武将である菊池二郎高直は、平安時代末期、絶大な権力を握った平氏に仕えたが、源氏との戦いに敗れ、安徳天皇、平宗盛と共に九州の大宰府に逃げのびた。その後、菊池二郎高直は大宰府から『大津山の関あけてまいらせん。』と言って、自領である肥後国菊池へ戻ったきり帰ってこなかった。」と書かれている。平家物語巻八 - "菊池二郎高直は都より平家の御供に候けるが、「大津山の関あけて参らせん」とて、肥後国にうちこえて、己が城に引つこもり、召せども召せども参らず。"つまり高直は「肥後国に入る場所にある大津山の関は、警戒が厳重で簡単に通れない関所なので、自分が先に行ってあとから逃げて来る人たちが関所を通れるようにしておきます。」と言って、自分だけさっさと領地の菊池に逃げ戻ったということである。織田信長の死後、全国統一を進めていた豊臣秀吉が、最後まで抵抗していた薩摩の島津氏を征討するために九州に来たときに、南関を通っている。その時、秀吉にお茶を献上するために汲まれたとされる湧水が、今も「太閤水(たいこうみず)」として大津山公園の一角に残っている。豊前街道は豊後街道・薩摩街道・日向街道とならぶ「九州四大街道」のひとつで、熊本の城下から南関を経て豊前・小倉を結ぶ、参勤交代路であった。南関は筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、松風(まつかぜ)の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。また、参勤交代の道中、肥後藩主らが休息をとった「御茶屋」は、現在、豊前街道南関御茶屋跡として保存されている。肥後国熊本藩初代藩主である細川忠利も、寛永九年(1632年)の肥後入国の際に南関で休息をとり、熊本に向った。九州新幹線が町内西部を通過するが駅は無い。最寄りは新大牟田駅または大牟田駅。このほかかつては南関町および和水町を経由して福岡県瀬高町・山川町(現・みやま市)と山鹿市を結ぶJR九州バス山鹿線の路線バスが運行されていたが、2006年3月1日に廃止され、路線は九州産交バスに譲渡された。九州産交バスに引き継がれた区間のうち2009年10月1日に瀬高駅 - 南関上町間が廃止されたため、みやま市方面に行く路線バスは無くなった。

出典:wikipedia

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