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甲陽学院中学校・高等学校

甲陽学院中学校・高等学校(こうようがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県西宮市(阪神間)に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。中高一貫制であるが、中学校と高等学校の所在地は異なっている。学校法人辰馬育英会(白鹿グループ)が運営する男子校である。関西教育界第一人者であり、特に、女子教育で定評のあった教育者伊賀駒吉郎が「自由な私学」を求め、阪神間枝川(現在の甲子園)の地に『甲陽十二訓』を掲げ1917年(大正6年)「私立甲陽中学」を創立。官立中心だった中等教育界の中で自由主義の学校として存在し、生徒の個性を伸ばす学校という評判があった。「桜梅桃李」に因み、学級の構成は「桜・梅・桃・李」であった。戦後の学制改革で、大学になるのでなく中等教育機関として大学に人材を輩出することを選び、パブリックスクールを手本の一つとして新体制が整えられた。当時の校長と理事長の2人で京都大学、大阪大学などを歴訪し新教員をリクルートした。所在地は新制以来中学と高校で別であり、いくつかの変遷があるが、現在は、ともに阪神間文教都市西宮市夙川沿いにある。自然豊かな環境を一貫して特色としており、中学は夙川の桜の開花、紅葉、高校は甲山の高みからの大阪湾の眺望とともにある。伊賀駒吉郎の建学の精神、歴代卒業生・教職員により「気品高く教養豊かな有為の人材の養成」を目的とする校風が自主的に育まれた。第一次世界大戦後不況により本学の経営が困難に陥り、酒造家(白鹿)である辰馬吉左衛門が私財を投じて1920年(大正9年)3月、財団法人辰馬学院を設立し、中学校令に基づく中学校を発足、経営を引き受けた。教育に関しては一切を歴代の校長に任せた(だが、酒造家ならではの手腕と精神は陰に陽に影響を与えてきた)。以来、賢明な経営手腕をもって幾多の戦乱、不況、災害に耐え、校地の変遷も経て、現在までに約2万人の卒業生を輩出している。校訓・教育理念は『甲陽十二訓』および「桜梅桃李一時春」、「明朗・溌剌・無邪気」、「自ら学び、考え、楽しむ」などである。中学では制服があり規律正しいが、高校は校地も変わり、校則もほぼなく自由となる。辰馬育英会の理事と共に阪神間地域に根差し、在校生・教職員・卒業生の三極で、学校内で完結した学問、教育の場を目指している。人間形成に役立つ生業(体育、芸術、マナーなど)に力を入れており、「文化祭」ではなく「音楽と展覧の会」という行事が存在する。進学については、「いい大学生」たちを輩出し続けていきたいとしている。これからの方針として、時代と競わないことも重要であり、変わらない学校でありたいとしている。古人曰く、一年の計は穀を植うるにあり、十年の計は木を植うるにあり、百年の計は人を植うるにありと。天下の英才を教育して、各其の天稟を發揮せしめ、光彩陸離百花爛漫の偉観を現出するは、啻に國家百年の大計たるのみならず、人生の快事之れより大なるは無かる可し云々。桜梅桃李一時春。これが創立者伊賀駒吉郎の愛誦する句であった。それは自由な環境の中に強い自主性を育て祖国愛に燃える識見高い日本青年を世に送ろうとする伊賀の建学の精神でもあった。一."青年期は人生無二の修養期なり少年老い易く学なり難し一寸の光陰軽んず可からず未だ覚めず池塘春草の夢階前の梧葉巳に秋声あり"二."行為を蒔けば習慣を刈取り習慣を蒔けば品性を刈取り品性を蒔けば運命を刈取る"三."過去を払拭せよ未来は信頼せよ面して光栄ある現在に生活せよ"この他に第四訓から第十二訓まである。光彩陸離と様々な地域で輝き、百花爛漫と社会を照らす英才の現出を期する。創立以来の「桜梅桃李一時春」の理念で、気品高く教養豊かな有為な人材を養成することを目的とし、孝養の心を秘めた識見高い青年の輩出を目指す。銘酒の醸成のように、焦らず競わず衒わず長期的展望に立った人間教育を方針とする。中学校・高等学校は、学業はもちろん、人格完成にも品性陶冶にも大切な段階にある点に鑑み、情操教育を重視し、特に規律の励行、礼儀作法の実践体得を旨としている。「正々堂々甲陽健児」、「甲陽紳士」、「甲陽負けじ魂」という言葉がよく薫陶に用いられる。将来大学で学ぶもののために、充分な学力と体力とを練磨する。つまり、「いい大学生」の輩出を目指す。学習課程は自律的学習者養成のために、あえて「特色のない」カリキュラムをとり、学生自身が考え、自ら間違いに気付くようにしている。この精神は、第七代校長小河清麿が残した「自ら学び、考え、楽しむ」という言葉に凝結している。在校生・教職員・卒業生で三極を形成し、この三極をもって学問・教育の場を担う。学校内で完結することを目指しており、保護者や塾・予備校の関与は最低限に抑えている。自由な私学を念願していた伊賀駒吉郎は、1916年(大正5年)に阪神間枝川周辺の地(現在の甲子園)の景色を見てその地に旧制「私立甲陽中学」を創立。戦後の学制改革の際に中学部を香櫨園に新設した。甲陽中学の創立当初では、球場もできる前であり、近くを枝川が流れていた。枝川にはアユなどが泳いでおり、魚釣りをする生徒もいた。辺りは見渡す限りのイチゴ畑で、その中を阪神電車が走っていた。枝川の清流と白砂青松を誇った高校校舎の外周も、騒音と排気ガスにより環境が悪化した。そのような折に辰馬家はいち早く校舎移転を唱え、甲山山麓の辰馬家所有地を提供、1978年(昭和53年)に移転した。以来、甲陽の歴史は、自然とのふれあい豊かな環境とともにあった(学院歌の「山に問えば山は答え、海に問えば海は答える」の描写は象徴的である)。生徒の年齢発達に応じた、一層実りの多い中高一貫教育を行うために、中学と高校の立地、設備を別々に整えている。中学と高校で校地が異なる。設備はそれぞれで独立しており、講堂、図書室、食堂、体育館、テニスコート、プールがそれぞれに設置されている。ただし、トレーニングジムは安全性のため高校のみにある。また、甲陽では創立以来食を大切にしており、旧制時代では食堂棟を独立に設け、プロの料理人が経営し、当時にしてカレーライス、ハヤシライス、日替わりランチがメニューとして存在していた。1993年(平成5年)8月には、香櫨園の中学旧校舎東側に新校舎竣工。旧校舎は一部改築され講堂・芸術棟、食堂および記念塔として使用している。2017年3月には100周年記念事業として、中学講堂の新築を予定している。中学では規律、高校では自主性・創造を重視している。中学では黒の詰襟学ランおよび白ポロシャツの制服があり、身だしなみについて細やかな注意や学習方法の指導がある。一方、高校では頭髪、服装は全面的に自由になり、自律が期待される。中学と高校で所在地が異なるため、行事は中高で異なる。毎年6月になると校外学習としてテーブルマナー講習会(高等学校1年対象)がノボテル甲子園で行われている。(行事について#文化も参照)中高はともに夙川沿いにあり、中学・高校の校章はそれぞれ海の近く、山の上つまり空近くにあることを象徴した意匠となっている。よく歌われるのは「甲陽学院のうた」であり、「学院歌」と呼ばれる。したがって、校歌を歌う機会がないまま卒業する生徒も多い。地域の文化(地域学)には当地に固有の私学の風土が介在している。甲陽は阪神間モダニズム、大正デモクラシーを地下水脈に持つ。幾多の時代の変化、阪神間地域、日本酒酒造を背景に、文化と呼べるものが醸成し、阪神間文化に介在してきた。文教都市西宮市において文教の振興に貢献してきた。学校としては宗教色はない。男子校ならではの大らかさとストイックさを持つ。マナー講習会があり、気品を重んじる。白鹿と密接な関係があり、銘酒の醸成を反映するような精神性を持つ。新制中学設立の際に、イートン・カレッジやハーロー校を念頭にアカデミックな雰囲気の学校を意図したこともあり、イギリスのパブリックスクールに通じる精神を持つ。通学の際に、中学では海に向かって下り、高校になると山を登ることになる。根源への意識および一歩一歩踏みしめて高みを志す精神の陶冶が期待されている。「甲陽は教育をする場ではなく、学問をする場である」という言葉が受け継がれてきた。このような学問第一の伝統の下、授業の進度は早く、中学で高校課程の範囲のほとんどを修了する。また、成績の席次は発表せず、安易な序列意識、階層意識が生まれないようにしている。1947年(昭和22年)に甲陽史学会が結成され、現在まで地域研究、自学史研究などの分野で業績を残してきた。この会の目的には、本学院を地域(阪神間)に根差したものにするということもあった。文科省の標準授業時数よりも多く授業時間数をとっている。また「文化祭」はなく、代わりに「音楽と展覧の会」という行事が存在する。中学の授業ではアルトリコーダーでグリーンスリーブス主題曲および変奏曲2番から15番までを練習する。そのため、これが中学の場に浸透している。「音楽と展覧の会」は、中学では合奏をする。高校では、歌唱をし、合唱コンクールが行われる。中学と高校それぞれで、希望者には講堂での個人演奏の場が設けられている。創立記念音楽会では毎年著名な音楽家が招かれる。授業では陸上競技、球技、水泳、武道を行う。体育祭では、行進曲にイギリス民謡組曲が用いられている。30人31脚を5年間行う。中学では関西学院中学部との間でスポーツ大会を開いてきた(甲関戦)。関西学院中は2012年に共学化し、男子校同士の学校行事ではなくなっている。このように戦前は野球の戦績が優秀であった。第9回全国中等学校野球(1923年(大正12年))では初出場で優勝。逆転に次ぐ逆転での優勝であった(このとき「甲陽負けじ魂」という言葉が生まれる)。なお、鳴尾球場での立命館中との試合で観客がなだれ込み、翌年の甲子園球場建設の一因となった。校地の南隣に阪神甲子園球場が建設され、グラウンドは出場校の練習場としても使われていた(移転後の現在でも練習が行われていることがある)。旧制の旧校地時代は阪神タイガースとグラウンドで合同練習をしていたこともあったという。1938年(昭和13年)の第24回の夏の大会を最後に一度も出場していない。そのため、特に旧校地時代は「近くて遠い甲子園」と呼ばれている。甲子園球場誕生1年目の1924年(大正13年)に当時の生徒が行進の先導役を務め、そのゆかりで甲子園球場の誕生90周年である2014年(平成26年)にも本学の生徒が先導役を務めた。本学院と同じく酒造家が経営する灘校との間で定期戦が開かれている。1952年(昭和27年)に両校の在校生が企画し、翌年1953年(昭和28年)から毎年開催されている。中学生同士、高校生同士、卒業生同士で試合をする。耐寒登山という行事があり、50年以上の伝統がある。高校から有馬温泉まで歩く。『浜風受くる日々に』にもこの様子が描写されている。第一部と第二部に分かれている。第二部には学校側は関与せず、卒業する生徒のみにより企画されている。劇、芸、仮装をするもの、楽器を演奏するもの、一聴衆に徹して礼を保つもの、あえて式に存在しないものなどがおり、様々な形で表現が行われる。現在でいう大学に相当する学校(旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校など)にほとんどの者が進学した。主な進学先は京都帝国大学、大阪帝国大学をはじめとする帝国大学、神戸商業大学、関西学院高等商業学校、同志社大学、慶應義塾大学、早稲田大学などであった。医師、外交官、教育者、芸能家、作家、実業家、政治家、博士、プロスポーツ選手、法曹家など様々な方面で人材を輩出した。なお、旧制中学は5年制である(第二次大戦末期は4年制)。毎年200名程度が国公立大学に進学し(卒業生数は190から200名程度)、そのうちの多くが大学院へ進む。最近3ヵ年の進学状況の詳細は公式サイトの進学情報の項を参照(#外部リンク)。学校側は進学指導などを行わず、志望、受験、進学の選択は学生の自主による。2日間あり、1日目に国語と算術、2日目に身体検査と口頭試問があった。受験者は、創立者伊賀駒吉郎の名声に惹かれてきたものが多かった。数年のうちに志願者は1000人を超え、倍率は5倍ほどとなった。現在は中学校入試のみを実施し編入試験はない。入学試験は兵庫県内私立中学校と同じ日に行われる。中学校入試は2日間であり、国語200点・算数200点・理科100点である。不合格者には成績を開示するが、合格者には成績を開示しない。その理由は同じスタートラインに立って中等教育生活を始めてほしいという配慮に基づくものである。なお、求める学生像のようなものは定めていない。成長の可能性を積極的に汲み取り、なるべく絶対評価で合格判定をする。志願者は専願のみである。第一次世界大戦後の不況を通じて、辰馬吉左衛門が私財を投じて経営を引き受けて以来、学校法人辰馬育英会として白鹿グループにより経営が引き継がれている。辰馬家は日本酒「白鹿」などの酒造オーナーとしてだけでなく、損害保険や海運業といった各業種の文化事業家でもある。賢明な経営手腕の下、潤沢な自己資金を持っている。学費は、他の私学に比べると安い。学校側が在校生および卒業生に寄付を要求することはない。甲陽ファンドという同窓会有志による基金があり、経済的に困窮している在校生への援助や、優秀者の表彰に奨学金として使われる。甲陽学院高校旧校地のうち東半分は売却され現在はイオン甲子園店となっている。西半分は現在白鹿の関連会社であるノボテル甲子園となっており、甲陽学院高校のテーブルマナー講習会が催されている。

出典:wikipedia

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