煩悩(ぼんのう、、クレーシャ、、キレーサ、)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、「漏」(ろ、、アーシュラヴァ、、アーサヴァ)、「随眠」(ずいめん、, アヌシャヤ、、アヌサヤ)等、数多くの表現が用いられたりもする。真正仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。大乗仏教でもこの分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻な探求は大乗仏教を観念論へと導く端緒でもあった。それによりこの時代には、煩悩を否定しないという真正の仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えた。煩悩の根本に三毒がある。人生においてどのような局面がどのような煩悩となるかをよく知る(遍知)ため、後代にそれを細かく分析し修習の助けとしたものであり、「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。俗に煩悩は108あり、除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われるが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちである。小は3にはじまり、通俗的には108、大は(約)84,000といわれる。心所の区分から言えば、を煩悩とみなすことができる。また、説一切有部では、『倶舎論』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を「九十八随眠」として表現することもある。これは、「貪・瞋・痴・慢・疑・見」の「六随眠」を起点とし、三界の内の「欲界」に32、「色界」「無色界」にそれぞれ28、計88の「見惑」(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の「修惑」(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。これに「十纏」とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。また、の5つを、「五蓋」(ごがい)と呼ぶ。「蓋」とは文字通り、「心を覆うもの」の意味であり、煩悩の異称。これらは比丘の瞑想修行の妨げになるものとして、取り除くことが求められる。修行者を欲界(下分)へと縛り付ける煩悩を、五下分結(ごげぶんけつ)と呼ぶ。「結」とは「束縛」の意。この5つを絶つことで、不還果へと到達できる。この5つの内、3-5の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において、早々に絶たれることになる。修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる。説一切有部では、煩悩を分析し、知的な迷い(見惑)と情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け、また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える。大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。瑜伽行派の後継である東アジアの法相宗もこの説に従う如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩(きゃくじんぼんのう))。この煩悩を智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して智慧を得ることが、大乗仏教の求める悟りにほかならない。菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。