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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。7世紀に成立した。成立時の範囲は、現在の岐阜県南部と長野県木曽郡にほぼ相当した。南隣の尾張国との境は木曽川であったが、当時の流路は現在より北で、現在の境川下流を通っていた。霊亀元年(715年)7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた(『続日本紀』)。大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』斉明天皇6年10月条)。木曽谷に関してはしばしば美濃国と信濃国で領有が争われたが、貞観年中(859年~876年)に朝廷は藤原朝臣正範や靭負直継雄らを派遣して国境を鳥居峠とした。その後平安末期までに木曽は信濃国という認識がされ始めており平家物語などは信濃国木曽と記述するようになる。鎌倉時代には大吉祖荘は信濃、小木曽荘は美濃と書かれる傾向にあった。室町時代中頃まで美濃国木曾荘という記述が見られるが、最終的に武田信玄が領有した戦国期には確定し信濃国筑摩郡に編入されたと推定されている。天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町、笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町、平田町の大部分)である。美濃国は愛知県豊田市の一部と稲沢市祖父江町の一部を含む。また郡上市の一部(旧石徹白村)は美濃国ではない。これらは岐阜県の成立後に行われた隣接県との境界変更において、所属する県が移ったものである。また、長野県の神坂村も昭和20~30年代に岐阜県中津川市への合併で問題となり、結局、1958年(昭和33年)に大部分が分割されて中津川市に編入され、馬籠地区のみが長野県に残って山口村と合併した。平成の大合併の際にも、山口村の中津川市への編入が問題となり、中山道馬籠宿という観光地を失うことになる長野県から強い反対があったが、元々山口村は、日本海側である長野市との繋がりが浅いため、2005年(平成17年)に長野県から離脱し、岐阜県中津川市へ編入された。これは平成の大合併における唯一の越境合併であった。国府は不破郡にあった。現在の岐阜県垂井町府中にあり、遺跡が発掘されている。以下三郡は、安土桃山時代に尾張国より移管された。

出典:wikipedia

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