飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。「飛騨」は飛騨山脈の西側一体を示す言葉で、現在は岐阜県北部に位置する。今日その名を受け継ぐのは飛騨地区北端の飛騨市だが、自治体としての規模や文化の中心的存在としては、ほぼ中央に位置する高山市の方が大きく、高山市は「飛騨高山」と呼ばれることが多い。飛騨山脈の北側に位置する飛騨地方は、雪が多い日本海側型の気候である。飛騨は交通の便から隣接する富山県(越中)と経済的文化的な結びつきが強く、両者をまとめて飛越地方ともよばれる。一方で岐阜県内の太平洋側地域とは山脈に遮られる形で交通の便が悪かった。古くは「斐太」や「斐陀」と書いた。この表記は現存しており「斐太高校」などに見られる。『続日本紀』に文武天皇の大宝2年(702年)夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『万葉集』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。これ以降「飛驒(飛騨)」と表記されるようになった。『和漢三才図会』七十にある飛騨国風土記の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元美濃の内なり。住昔(むかし)、江州の大津に王宮を造りし時(天智天皇造営)、この郡より良き材(き)を多く出して、馬の駄に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛駄の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『日本古典文学大系』(の脚注)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。7世紀に斐陀国造領域を中心にして成立した。飛驒は当時辺境地帯を除けば最も過疎地域であったため税制上の特例が認められた。すなわち、庸・調を免除されるかわり大工(飛騨工)が徴発された。これは後世、大工業が発達する一因ともなる。京極氏が代々飛騨守護を勤め京極氏の領国だったが、後に京極氏の支流で守護代の三木氏が台頭、江馬氏・内ヶ島氏・照蓮寺などの諸勢力とが、上杉謙信や武田信玄、一向一揆の影響を受けながら争っていた。戦国時代には、姉小路氏に改姓した三木氏が悲願の飛騨国統一を達成し、一時的にだが支配していた。本能寺の変以後は、金森長近が羽柴秀吉と対立した姉小路頼綱を攻め、高山城を本拠地とした。江戸時代になると、当初は高山藩が置かれていたが、後に公儀御料(幕領)となり高山代官所(1777年に飛騨郡代に昇格)が飛騨国を治める事となる。この時代には、飛騨国は林業地帯として発展し、「飛騨の匠」と呼ばれる大工を多く輩出した。以来、飛騨地方には、家具などの木工産業が多く立地している。明治維新直後には、天領と呼ばれるようになった旧幕領が廃藩置県に先立ってまず府または県という行政単位に改編された。飛騨国は早くも明治元年5月(1868年6月)に飛騨県となり、そのわずか1週間には高山県となった。明治2年(1869年)には県知事梅村速水の急激な改革に対しての暴動(梅村騒動)が発生する。廃藩置県後の明治4年(1871年)に行われた府県合併により、近隣の信濃国中部南部の諸県と合併して筑摩県の一部となった。明治9年(1876年)に筑摩県が廃止された後は、当初旧美濃国のみで構成されていた岐阜県に編入され、これが現在に至っている。明治時代には、国家的な重要産業であった製糸業を担う労働力として、飛騨地方の村落から、山道を通って諏訪湖周辺に多くの女性が流出した(『あゝ野麦峠』)。平成時代には平成の大合併が行われて自治体が再編され、これによりできた高山市・飛騨市と残った白川村は、皮肉にも三木氏・江馬氏・内ヶ島氏の支配領域とそれぞれがほぼ一致している。明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。国府は『和名抄』によると大野郡にあった。『拾芥抄』では、「大原(大野郡のこと)、府」とある。現在の高山市国府町にあったと考えられているが、未だ発見されていない。江戸時代以前江戸時代山国なので、気候は飛騨地方全域内陸性気候を呈しており、それに併せて大部分は日本海側気候、一部地域は中央高地式気候、地域によっては豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)で冬季は雪が多い。また、スーパーカミオカンデを抱える地方でもある。
出典:wikipedia
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