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土井正三

土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。兵庫県出身。土井の父親は息子を政治家にしたかったため、「投票用紙に書きやすいように」という理由から、正三という名前が付けられた。育英高校では、遊撃手、三番打者として1960年の春の選抜に出場。2回戦(初戦)で北海高の佐藤進投手に抑えられ敗退。同年夏は県予選決勝に進出するが、明石高に敗れ甲子園には届かなかった。高校同期に井上勝巳投手がいる。卒業後は立教大学に進学。当時の立大は有力選手の中退が相次ぎ、東京六大学リーグでは在学中に優勝はできなかったが、中心打者として活躍。リーグ通算84試合出場、274打数67安打、打率.245、0本塁打。1963年秋季リーグの明立2回戦では、牽制球で二塁に帰塁する際に、明大の住友平二塁手のスパイクを受けて負傷退場。住友と浪商高校同期の前田周治(立大-立正佼成会-河合楽器)との乱闘事件の引き金となる。1964年春季リーグでは遊撃手としてベストナインに選ばれる。同季の慶立2回戦で、慶大の渡辺泰輔投手がリーグ初の完全試合を記録した試合の三番打者であった。大学同期(いずれも中退)に松本照夫、山口富士雄、森本潔がいた。に読売ジャイアンツに入団。二塁手と遊撃手を掛け持ちして、新人ながら105試合に出場すると、翌からは二塁手のレギュラーに定着。同年から始まった前人未到の記録V9の主力選手のひとりとして、チームに貢献した。V9前半(1960年代後半)は主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治や長嶋茂雄へのつなぎ役であった。打撃面では追い込まれたカウントでもファウルで粘ったり、右翼方向を狙うなど、玄人好みの打撃が光った。長打力はなかったが、は打率.289(リーグ10位)、は.293(リーグ6位)と2年連続で打撃成績ベスト10に入っている。また、犠打などの小技や走塁技術にも優れ、二塁手としても堅実な守備を見せ、1968年との2年連続でベストナイン二塁手のタイトルも獲得した。特に土井が名声を挙げたのは、1969年の日本シリーズ(巨人対阪急)での本塁突入の走塁である。この日本シリーズ第4戦(10月30日)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手岡村浩二から二塁手山口富士雄を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審の岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。試合後、川上監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日に岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した写真が、各新聞の第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。V9時代後半(1970年代前半)は七番や八番など下位打者を務めるが、引き続き二塁手のレギュラーとして、チームを支えた。V9以降はチーム編成上の事情もあって、上田武司や富田勝、ジョンソンらにしばしば定位置を明け渡すこともあり、出場試合を減らす。またこの間のからはコーチを兼任している。からにかけては正二塁手に復活し、特に1978年は打率.285、リーグ最多の犠打27個を記録し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど活躍する。土井自身はこの好成績に年俸アップを考えていたところ、突然一軍守備・走塁コーチの黒江透修が退団したことから、長谷川実雄球団代表から現役引退・コーチ専任の打診を受ける。土井は現役続行の意志があった上に、コーチ専任によって収入が半減することもあって抵抗するが、長谷川の説得に折れ、同年限りで現役を引退した。引退後は巨人の一軍守備・走塁コーチ( - )、日本テレビ野球解説者(1981年 - 1985年)、巨人の一軍守備コーチ( - )、日本テレビ・ラジオ日本野球解説者(1989年 - 1990年)を務めた。中畑清の代名詞「絶好調」の生みの親となった(詳しくは中畑の項を参照)。にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任。神戸にフランチャイズを移したこともあり、地元出身者として土井に白羽の矢が立った。当時のオリックスは「ブルーサンダー打線」と愛称がつけられた打高投低のチームで、Aクラスではあり続けるものの優勝には手が届かない状況だった。阪急西宮球場から両翼が8m近くも広くなるグリーンスタジアム神戸への移転のため、当然本塁打の減少が予測され、打線に従来の破壊力は期待できない一方、投手には有利となるので、(このため、上田利治前監督時代の主力選手だった松永浩美やブーマー・ウェルズ、熊野輝光などが他球団に移籍し、代わりに野田浩司、長谷川滋利、野村貴仁らが入団することになる)。そのような青写真を掲げて望んだ監督1年目の1991年は、順位こそAクラスである3位(勝率5割未満)だったが、開幕直後から負けが込み優勝争いには絡めず、上位の西武や近鉄には大きく負け越していた。1992年にはシーズン前のキャンプで、当時ルーキーだった田口壮等の若手の選手に内野守備を指導するため新品のグラブを用意した。田口を開幕スタメンに起用し、また非常に厳しい指導を施した(結果としては田口は指導が合わず送球イップスにかかってしまい、土井が退団した後の94年に外野にコンバートした。)。同シーズンも、勝率5割未満でAクラスは維持した。1993年には、松永とのトレードで移籍してきた野田が最多勝を獲得する活躍などで勝率は大きく上がったが、3位に終わった。同年限りで監督を辞任、仰木彬に監督の座を譲った。巨人OBであることを払拭するどころか振りかざし、阪急時代からのファンからは反感を買い続け、3年間受け入れられることはなかった。その後はラジオ日本野球解説者(1994年 - 1995年)を経て、古巣・巨人の一軍総合守備コーチ(1996年)、一軍内野守備コーチ(1997年 - 1998年)まで務めた。長嶋一茂との確執はあったものの、ルーキーの年にサードを守っていた仁志敏久が翌年にセカンドにコンバートした際に熱心な指導をして不動のセカンドに育て上げた。その後、野球解説者の傍らプロ野球マスターズリーグ「札幌アンビシャス」(2006年)の監督を務めた。2007年6月8日、巨人軍通算5000勝記念イベントの一環として行われた、V9ユニフォーム復刻シリーズ初日のV9戦士勢揃い始球式に、歩行もおぼつかない車椅子姿で参列した。同イベント終了後、本人が膵臓ガンを患い3月に手術を受けたことを公表した。入院加療していたが、7月27日に退院。それ以後は2008年1月のプロ野球マスターズリーグ表彰式に姿を現した以外は自宅療養を続けていた。2009年9月25日午後零時24分、東京都内の病院にて死去。。戒名は「専心院法巧日正居士」。葬儀は9月29日に東京都大田区の池上本門寺で営まれ、約300人の球界関係者などが参列し、車椅子で川上哲治が弔辞を約15分間読み上げた。また一般のファンも約300名が外で別れを惜しんだ。土井の闘病の様子は、2009年3月29日に放送された『報道特集NEXT』(TBSテレビ)及び毎日放送関西ローカルのドキュメンタリー番組『映像09』にて紹介されており、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦(日本対韓国)の模様を私邸のベッドから起き上がりながらテレビ観戦している映像が、事実上公の場での最後の姿となった。オリックス監督時代の土井につきまとう評価は「イチローを見出せなかった」というイメージである。もっとも、1993年は高卒2年目の鈴木一朗(当時)を開幕戦にスタメンで起用し、その後しばらく一軍で起用していた。その後、「一軍のベンチに置くくらいなら二軍で4打席を与えたかった」ため、代走で出した試合の牽制球アウトをきっかけに二軍へ落とした(開幕から二軍落ちまでの打撃成績は12打数1安打)。土井は1996年2月のインタビューで、「間違ったことをしたとは思わない。1993年は春から使ったが打率は1割7~8分そこそこ。順番を付けるとしたら5番目の外野手。僕は3年契約最後の年だったし、そういう選手を使う度量も余裕もなかった」と語っている。また、パンチ佐藤は、イチローが野茂からプロ入り初本塁打を放った翌日に二軍落ちさせられたというエピソードを語っているが、完全な捏造であり、その後7試合連続で起用(うち6試合で先発出場)されたが、20打数4安打、打率.200・出塁率238・長打率.250と結果を残せず二軍落ちというのが真相である。また、イチローに「振り子打法」をやめるように指示したといわれている。当時の土井はマスコミに対しても「鈴木のあの打法はプロ野球では通用しない」と公言。監督退任後も「あの振り子はイチローにしか出来ない打法であって、本来プロでは通用しない打法である」という主張は曲げておらず、「たとえイチローが4割打とうとも私は彼の打法を認めない」と発言した。一方でイチローが2年連続首位打者に輝いた後の1996年2月のインタビューでは、「入団した年に初めて見た時からイチローはいずれ首位打者をとると確信していたが、ひ弱に感じた。タイトル争いをするとのみ込まれちゃう。一回ガツンと下へ落とせばたくましくなるだろうと思った」「ところが、200本安打の大記録をイチローはあっさりやってのけた。この2年間、『オレのやり方は違っていたのか』と考えさせられたのも事実。今の若い子に精神力なんて関係ないのかな、プレッシャーのない人間もいるんだなと……。結局、僕の方が教えられたな」と語っている。1992年春季キャンプでは、球団社長や宮内義彦オーナーに異例の二軍キャンプ視察を促し、川上哲治がオリックスのキャンプを視察に訪れた際には、土井は新人のイチローを「福本豊の後継者になれる」「15年間はチームのリードオフマンを張れる逸材かもしれない」と評価しつつも、「鈴木の性格には難がある(生意気である)為、その性格が直るまでは(一軍で)使わない」と川上に話していたという。イチロー入団時のオリックスの外野は高橋智、本西厚博、藤井康雄の主力に、1993年に入団したタイゲイニー、柴原実、山森雅文、佐藤和弘(現:パンチ佐藤)、DHは石嶺和彦という攻・走・守全ての面でメンバーで固められており、当時1・2年目のイチローが入る余地がなかったとも言える。そのような中でも土井はイチローを高卒の新人選手としてはかなり優遇して使っており、1992年には7月以降9番打者や2番打者としてたびたびスタメン出場させたり、1993年の開幕戦にもスタメン出場させたりしている。また、イチローが全国区となった1994年は、石嶺がFAで退団、藤井、タイゲイニー、高橋智の出遅れが重なっていたという事情もあった。阪急時代の名残を残していたチームカラーを急激に変えようとした結果、選手はおろかファンもついていけなかったこと、そして土井本人の巨人OBイメージの濃さが、チームに合わず結果にも人気にも繋がらなかった。ガンに倒れた後に自身が評論家を務める東京スポーツに、通算3000本安打達成の際に寄せたコメントでは、イチローが土井の体調を心配した事について触れていた他、イチローを二軍に落としたのは、あの段階ではまだ充分に体力がついていなかった為とコメントし、後年の活躍でバッシングを受けた際、イチローの父・鈴木宣之から「あの経験があったから現在がある」と慰められた事を紹介した。イチローも「いつも気にかけてくれていた」と証言しており、そうしたイメージを否定している。イチローは2003年の時点で土井について度々言及しており、ビートたけしとの対談では「感謝しているんですよ。世間ではふたりの仲は良くないって言われてますけど、そうではないんですよ。土井さんは次の年のために、しっかりと体を作れっていう指示を出してくれていたみたいなんですよ」「その年で土井さんは監督を辞められたわけですけど、もし仰木監督の就任がなかったら、土井さんは僕を使う予定だったらしいんです」と述べ、ファン212人を前にした糸井重里との対談では、「土井監督と僕とは、みなさんが思っているような犬猿の仲じゃないんです」「お会いすればもちろんお話をしますし、本当に感謝しているんです。そこは、誤解しないでくださいね」と語っている。振り子打法を考案した河村健一郎は、「イチローを二軍に落とすよう主張したのは、ダウンスイングに打法改造するよう指示した一軍打撃コーチであり、土井監督は打撃コーチの意見を尊重せざるを得なかったにすぎない」と述べている(ここで触れられている「(一軍)打撃コーチ」とは土井がオリックスで監督を務めた3年間、一貫してヘッドコーチ兼打撃コーチとして在籍した山内一弘のことである。山内は土井より10歳年上)。イチロー自身も同様の証言をしており、実際にイチローの打法に対してしつこく干渉してきたのは、一軍打撃コーチだったという。土井は2001年にピオリアを訪れ、シアトルの記者から「なぜ(イチローを)使わなかったんだ」と質問された際、「当時の打撃コーチが彼(イチロー)のフォームを好きじゃなかったから」と答えている。オリックスの投手であった星野伸之は、土井について「人柄はソフトで優しいが、野球のことになると、妥協を許さないところがあった」と評している。星野が1安打完封をした日、星野は監督室に呼ばれ、土井から「あのヒットだけどな、配球が違ってたな。ちゃんと投げとけば、ノーヒットノーランだったのに、もったいない」と30分程説教されたという。野田浩司は、オリックス移籍後2試合目の登板となった近鉄戦で、2回まで4失点で2回で降板と思っていた時、土井から呼び出され、「セ・リーグなら、こんなピッチングをしたら代打だが、パは投手に打席はない。俺は少々のことでは代えない。気持ちを入れ直して次の回からいってみろ。」と言われたという。3回からはペース配分など考えず投げ、4回は得意のフォークボールも落ち、5回には石嶺の3ラン本塁打でチームが逆転し、当時自己最多の15奪三振で移籍後初勝利となった。野田は土井の「俺は簡単に代えないよ」という言葉に意気を感じ、投げ続けたことが同年の最多勝につながったと語っている。土井に批判的な選手もおり、ブーマー・ウェルズは土井について「土井監督が来てからチームは落ちていった。土井監督とうまくやれた選手がいない」と厳しい評価をしている。ブーマーは土井との確執で1991年限りでオリックスを退団した。また、パンチ佐藤も自著「プロ野球・独断毒舌改造論」で土井を「D監督」とイニシャルで書いたり、引退時のインタビューで「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と述べたりしている。コーチとしての評判は良く、コーチ時代の土井の下でプレーしたウォーレン・クロマティは、「ドイは口うるさいのが玉に瑕だったが、好感を持っていた。ナイスガイだった」と自著に記している。仁志敏久は二塁手の守備のあり方を指し示してくれた恩人として、土井をコーチとして高く評価しており、「土井さんのおかげでセカンドとしてプロで通用するようになった」と感謝の意を表している。【11月5日】1965年(昭40) ルーキー土井正三 始まりはエラー、終わりはサヨナラ安打 - 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出典:wikipedia

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