トリアノン条約(トリアノンじょうやく、, , , )は、第一次世界大戦の敗戦国となったハンガリー王国と連合国が結んだ講和条約。1920年6月4日にヴェルサイユのトリアノン離宮で調印された(トリアノンはグラン・トリアノンとプティ・トリアノンがあるが、この条約は前者で調印された)。第一次世界大戦までのハンガリー王国はオーストリア=ハンガリー二重帝国の一部であったが、帝国はヴィラ・ジュスティ休戦協定により第一次世界大戦に敗北し、同時に国内の内乱と皇帝カール1世の退位の結果解体された。ハンガリーは分離独立したため、オーストリア(第一共和国)とは別に講和する必要が生じた。さらにルーマニア王国がトランシルヴァニア全土に進駐して併合を宣言しており、チェコスロバキアもスロバキアに進駐して領有権を主張していた。また、前年の1919年にはルーマニアがハンガリー革命後の混乱に乗じて首都を占領し、ハンガリー・ルーマニア戦争が勃発していた。こうした状況から、ハンガリーは国境を確定する必要に迫られ、条約締結に至った。この条約により、ハンガリーはオーストリアとの合邦以前から領有していた歴史的領土の大半にあたるスロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを、それぞれ連合国側に就いた周辺の戦勝国チェコスロバキア共和国、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)、ルーマニア王国に割譲した。またオーストリア共和国にもブルゲンラント州を割譲し、現在のハンガリー領に相当する領域へと大幅に縮小された。加えて、石炭や家畜などの連合国側への無償提供、さらには賠償金の支払いの要求など、一方的で過酷な条件を連合国側から押し付けられた。当時のハンガリーは相次ぐ政権交代や戦乱で混乱状態にあったため、この過酷な要求を飲まざるを得なくなり、講和条約に調印した。この条約の厳しい内容により、その後のハンガリー王国は右傾化し、第二次世界大戦で枢軸国側に立って参戦する遠因となった。また、ハンガリーの報復を恐れたチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアはフランスと小協商を結成し、ハンガリーに対抗しようとした。しかしこれはドイツという大国の前には無力であった。ハンガリーは1939年以降にミュンヘン協定やドイツの後押しを受けたウィーン裁定により喪失した領土の大半を回復するが、敗戦後にはウィーン裁定による領土回復は無効とされた。2010年、ハンガリーは6月4日を「国民連帯の日(Nemzeti Összetartozás napja)」と定めた。JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.A03021357000、御署名原本・大正十年・条約第三号・大正九年六月四日仏蘭西国トリアノンニ於テ帝国全権委員ノ同盟及聯合国全権委員並洪牙利国全権委員ト共ニ署名調印シタル平和条約及附属議定書 (国立公文書館)
出典:wikipedia
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