上諭(じょうゆ)上諭(じょうゆ)とは、日本国憲法の施行前の日本において、天皇が法令を公布する際に、その頭書に天皇の言葉として記された文章のことである。当初は公文式(明治19年勅令第1号)に上諭に関する規定があったが、それに代わり公式令(明治40年勅令第6号、こうしきれい)が制定され、その後は公式令の規定により上諭を付されることになる。その後、日本国憲法の施行日(1947年5月3日)に公式令は廃止された。現在は、公布文が上諭と同じ役割を果たしている。大日本帝国憲法の上諭は、前文としての性質を有し憲法典の一部を構成するとされていたが、ある一時期に成立した法令以外の上諭の多くは単なる公布文であり、法令の一部を構成しないとされていた。そのため、通常の法令集等では上諭の記載が省かれることが多い。また、法令の一部改正により上諭を改正することはないため、上諭に記載された件名と(改正後の)題名との間に不一致が生じる場合がある。法令の全部改正が行われた時のみ、これまでの上諭は全部改正法令の上諭または公布文に置き換えられる。○○○には、法令の件名が入る。なお、1946年(昭和21年)以降の上諭は、これまでカタカナ使用の文語体から、ひらがな使用の口語体に切り替えている。(皇室典範及び増補と皇室令は最後までカタカナ使用の文語体のままである。)この他にも、枢密院の諮詢を経ているのならば「枢密顧問の諮詢を経て」、勅令の場合、貴族院の議決を経ているのならば「貴族院の議決を経て」、皇室令の場合、皇族会議の諮詢を経ているのならば「皇族会議ノ諮詢ヲ経テ」を「朕」と「件名」の間に追加していく。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法には、上諭が付されている。これは、公式令第3条第1項が「帝國憲法ノ改正ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス」と定めていたことに基づく。また、この上諭は、同条2項に「前項ノ上諭ニハ樞密顧問ノ諮詢及帝國憲法第七十三條ニ依ル帝國議會ノ議決ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣總理大臣年月日ヲ記入シ他ノ國務各大臣ト俱ニ之ニ副署ス」と定められたとおりの形式も整えられている。原本では、「朕は、国民の至高の総意に基いて、基本的人権を尊重し、国民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去し、進んで戦争を放棄して、世界永遠の平和を希求し、これにより国家再建の礎を固めるために、国民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意図し、ここに帝国憲法第73条によって、帝国憲法の改正案を帝国議会の議に付する。」…とある。上諭の内容は、日本国憲法の制定が大日本帝国憲法第73条の改正手続に従って行われたことを示している。ここで講学上問題となるのは、大日本帝国憲法と日本国憲法の間に法的連続性があるか否かである。上諭の内容をそのまま読めば、日本国憲法は大日本帝国憲法を改正したのであるから、両者の間には連続性があることになる。ただ、その本文の内容を見ると、日本国憲法は前文・第1条で国民に主権があることを定めるのに対して、大日本帝国憲法では主権が天皇にあると解されていた。ここで、憲法の改正には限界がないとする見解(憲法改正無限界説)をとれば、依然として大日本帝国憲法と日本国憲法との間には法的連続性があると解することができる。しかし、憲法の改正には一定の限界があり、主権の所在の異動は改正の限界を超えるとする見解(憲法改正限界説)によれば、大日本帝国憲法と日本国憲法との間には法的連続性がないと解される。そこで、憲法改正限界説に立って、主権の異動と上諭の内容を整合的に説明する理論として、八月革命説が唱えられた。八月革命説とは、1945年(昭和20年)8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾したことを法的な革命と擬制し、その上で、便宜的に上諭にあるとおり大日本帝国憲法の手続に従って憲法改正したとするもので、大日本帝国憲法と日本国憲法の間に法的連続性はないとする見解である。なお、日本国憲法に付された上諭は、大日本帝国憲法に付された上諭と異なり、単なる公布文であり、憲法の一部を構成しない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。