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京王5000系電車

1.京王5000系電車(初代)(けいおう5000けいでんしゃ)は、かつて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に在籍していた通勤形電車である。本系列には基本系列の5000系(狭義)と増結用の5070系→5100系が存在したが、一般的に両者をまとめて5000系(広義)として扱うことが多い。このため、本稿では両系列を一括して記述する。2.京王5000系電車(2代)(けいおう5000けいでんしゃ)は、2016年(平成28年)5月に2018年(平成28年)春から運用すると発表された特急用車両。クロスシートとロングシートの転換ができるとことが特徴とされている。ただし、2016年より設計開始とのことで詳細は不明。1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)にかけて155両(うち5000系が4両編成23本、5100系が2両編成12本・3両編成13本)が日本車輌製造・東急車輛製造・日立製作所で製造された。架線電圧の1,500V昇圧に伴って投入され、京王帝都電鉄京王線が路面電車由来の軌道線から本格的な都市鉄道への脱皮を果たしたことを象徴する車両である。また、この車両から前面に貫通扉を設置した。前年に登場した井の頭線用の3000系に続いて、1964年(昭和39年)度の鉄道友の会ローレル賞を受賞している。同一鉄道事業者の2年連続受賞は京王が初であった。この5000系を最後に、京王はローレル賞、ブルーリボン賞を受賞していない。1968年(昭和43年)以降に製造された車両は、関東地方初、また通勤形電車のうちロングシートを装備した車両という条件に限れば、日本初の冷房車となった。京王線沿線では戦後復興から昭和30年代に入り沿線人口が急増し、その対応として架線昇圧をはじめとする輸送力増強対策を進行するとともに、新宿駅の地下移設と駅ビル建設を行い、百貨店業に進出することを決定した。そのため、百貨店のあるべき姿の参考として1962年(昭和37年)7月、沿線利用者を対象に「京王のイメージ」に対するアンケート調査を行った。しかし「地味でパッとしない」「電車がのろい」というマイナス評価が「堅実」「大衆的」というプラス評価を上回るという厳しい結果となった。このため、鉄道部門でも従来のイメージを刷新するべく新宿駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間に定期特急を新設するとともに、特急運用に充当する車両を新製することとなった。導入の際には2ドアクロスシート車とする案もあったが、ラッシュアワーの際の客扱いに懸念があったことと、在来車との汎用性を持たせることから、3ドアロングシート車とした。17,500mmの車体に片側3か所の片開き扉を配する。窓は上段下降・下段上昇の2段式で扉間に3枚、扉 - 車端間に2枚を配する。これは2700系以来この5000系まで続いた窓配置である。車体の幅は当初2,744mm(外板間2,700mm)だったが、1964年製造の第7編成からは56mm広い2,800mmとなった。車両限界拡張に伴い狭幅車は扉下ステップが延長された。腰板を折った裾絞りの断面形状は当時首都圏の通勤形車両としては珍しく、他の例は小田急と相鉄のみである。前面は京王で初めての前面貫通扉・角型急行灯を設置し、運転台の窓は、これも当時の通勤車では営団3000系電車以外に例のない「低窓パノラマミックウインドウ」とした。塗装はアイボリー色の地色に80mm幅のえんじ色のラインを窓下に入れた。初期の車両は先頭車の正面脇に「ひげ」を入れていたが、後に廃止された。このアイボリーはその後京王グループのコーポレートカラーとしてバスやタクシーなどを含めて広く用いられた。1965年(昭和40年)製車からは前面・側面の行先表示装置を電動式とし、これ以前の車両にも改造で設置した。前面の種別表示のサボは掛け式から後に差し込み式となった。試験的にクハ5717とクハ5767にスカートを設置したこともあったが、この時点では他の京王車両には波及しなかった。車体前位の扉間窓下には京王帝都電鉄の旧社章、後位車端部の裾には「K.T.R.」の文字があった。これらは1989年(平成元年)以降撤去し、代わりに運転室直後の窓上に現行のCIシンボルマークが入った。井の頭線に投入した3000系はステンレス車体だったが、この5000系は普通鋼製車体である。当時京王線は踏切が約340箇所と多く(2013年現在は137箇所。その後京王線の踏切は昭和55年(1980年)までに自動化されている。)、踏切事故時の修復を容易にするため、普通鋼製車体を採用した。車内設備に関しては極力3000系と共通設計を行った。様々なバリエーションの車両が存在し、鉄道技術史の観点から見ても興味深い。冷房装置は8種類、駆動方式は釣掛駆動式とカルダン駆動式、主電動機・主制御器は3種、台車は12種が存在した。5000系は2M2Tcの高経済車として製造された。WN継手式駆動の補極・補償巻線付直巻主電動機 (130kW)、発電制動付一回転カム軸式主制御器、ARSE空制装置、PS13型パンタグラフを搭載した。起動加速度は2.5km/h/s、弱め界磁制御を15%までの広範囲で行い、5.60(150kW車は6.07)という大歯車比と30km/h台の低定格速度にも関わらず80km/h時の加速度1.5km/h/s、平坦線釣合速度120km/hの高性能を有する。制御器は日立製作所製で、MMC-HTB-20BもしくはMMC-HTB-20Cが使用された。両制御器の制御段数はともに弱め界磁起動1段、直列12段、並列6段、弱め界磁6段、発電制動20段である。パンタグラフは後年PT42形に変更され、余ったPS13形は井の頭線に転用されている。運転台は低運転台で、回転式2ハンドルで運転される。速度計は140km/h表示である。台車に関しては当初、クハには昇圧工事に際して廃車となった小型車のもの(イコライザー式の台車)が流用される予定であったが、東急車輌・日本車両製造・日立製作所が試作的な空気バネ台車を制作して提供したため、新品の台車で揃えることができたというエピソードがある。5100系は当初5070系と呼ばれ、2700系を電装解除した上で台車・制御器・110kWの主電動機を流用、性能も2700系相当とはいえ、最高運転速度105km/hには問題なく対応していた。第13編成からは5000系と同じ主電動機130kWのカルダン駆動に変わったが、形式上の区別なくデハ5070形及びクハ5770形として製造された。第19編成から3両編成となったが、5000系との番号重複の恐れが出て来たため5100系として登場。5070系として登場した18本も5100系に改称した。前後してカルダン駆動の第13 - 18編成は中間車を増備して3連化された。昇圧準備工事の際の車両のやりくりの関係で、ARSE式を採用した制動装置は1965年以降の5000系および5100系の第9編成からHSC-D(5100系吊り掛け駆動車は電制なしのHSC)方式に変更された。1967年(昭和42年)の5716編成から主電動機出力が150kWになり、ATSを装備した。5711 - 5715編成も後に出力150kWの主電動機に換装された。1968年(昭和43年)の5718・5119編成から冷房装置を搭載した。前述の通り、5000系5718編成・5100系5119編成から冷房装置を搭載したが、時期により以下のバリエーションがある。非冷房車の冷房車化は1969年から開始されたが、車軸の安全強度上、問題のない車両に限って行われ、5701 - 5710編成と5101 - 5112編成が改造対象から外れた。冷房容量の不足する5016編成のデハは1985年(昭和60年)に集中型FTUR-375-208Bに交換された。また、新製冷房車のうち集中型を搭載した車両は冷房装置更新の際に、5719編成がクーラーキセが独特の形状をした集中型FTUR-375-206(容量30000kcal・34.88kW)に、5720編成・5124 - 5125編成が集中型FTUR-375-205に交換された。なお、FTUR-375-205に関しては後年、6000系のクーラー更新時に余剰となったFTUR-375-208Bに交換された車両もある。1963年の投入直後は、京王のフラッグシップ車両として新宿 - 京王八王子間の特急に使用された。1967年の高尾線開業で設定された高幡不動で分割・併合する特急にも充当されたが、この時は5100系には社員のアイデアで誤乗防止の「緑の吊り輪」が採用された。これは、「前3両・後4両」などと案内しても乗客には分かりにくいが、「緑の吊り輪の車両・白の吊り輪の車両」と言えば誰でも間違いなく行先がわかるというものである。このアイデアは、6000系や8000系にも受け継がれている。1972年(昭和47年)の6000系登場以後は徐々に優等運用から撤退し、特に冷房のない初期編成は冷房車の登場で早期に優等列車から外され、1970年代後半からは各停を主体に運用されるようになった。それでも引き続きハイキング特急「陣馬」や大晦日から元旦に運行される特急「迎光」、競輪特急、競馬特急、急行などの季節列車・臨時列車には1980年代中頃まで5000系冷房車が使用されることがあった。その他、6000系の工場入りが重なった際にも5000系の優等列車が一時的に見られることがあり、1988年(昭和63年)夏頃には6000系8両編成の予備車確保の目的で5000系4連の片側先頭車を外した編成を2本連結し、さらに5100系3連を連結した9両編成が現われ、平日では午前中に通勤急行や特急で、休日には特急「陣馬」で使用されたこともある。1990年(平成2年)頃までは土曜・休日の朝に5000系6・7両編成使用の快速京王八王子行が片道1本のみ存在したが、これが最後の定期優等運用とされる。これら優等列車への使用は冷房車に限定されていた。その後、1995年(平成7年)5月1日はダイヤ乱れがあったため、特急橋本行に片道1回のみ使用されたことがある。5000系は地下鉄乗り入れ用車両ではないので、新線新宿以東の東京都交通局(都営地下鉄)新宿線には入線しなかった。また、車両限界の関係から笹塚 - 新線新宿間にも営業列車としては入線していなかった。1979年(昭和54年)10月3日に武蔵野台駅東側の飛田給11号踏切においてトレーラーより転落した重機との衝突による事故で、クハ5871号が1979年11月16日付で廃車された(詳細は「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故」を参照)。事故により廃車となったクハ5871号は翌年の1980年1月末に高幡不動検車区にて解体された。この際に残った5121編成の2両は当時編成を組んでいた5713編成との変則6両編成で運用復帰した。後年、5721編成からクハ5771を抜き取って7両編成となった。他方でクハ5771を供出した5721編成は5716編成との変則7両編成を組成した。本格的な廃車は1987年(昭和62年)から始まった。最初は2両編成の吊り掛け駆動車(5101編成 - 5112編成)が対象で、1989年3月21日までに営業運転を終了し、京王から吊り掛け駆動車が消滅した。これらの車両の大部分は非冷房のまま伊予鉄道に譲渡された。この時点で残った車両は4両+4両編成と4両+3両編成にまとめられ、各駅停車で運用された。1990年(平成2年)は相模原線の橋本開業による車両増備で廃車はなかったが、翌1991年(平成3年)から狭幅4両編成の廃車も始まり、冷房のない狭幅編成は1992年(平成4年)2月までにすべて廃車となった。同年5月に8000系60両が投入されたが、橋本特急新設による運用増のためにこの時点では廃車は発生しなかった。その後、同年10月から再び置き換えが開始され、同年12月までに29両が廃車となり、非冷房車は全廃された。そして、1994年(平成6年)春に12両、1995年(平成7年)春に38両が廃車になり、5100系は事実上全廃となった。この時点で5000系のみ24両が残った。同年11月 - 12月にさらに16両を廃車したことで、4両編成を2本連結した8両編成1本のみとなり、平日は朝ラッシュ時のみ、土曜・休日は競馬場線・動物園線といった支線内折り返し列車を中心に運用されていた。1996年(平成8年)3月以降は本線から完全に撤退し、動物園線の区間運転で使用されたが、同年11月30日に「さよなら運転」の準備と移動を兼ねて高幡不動 - 京王八王子 - 新宿 - 若葉台で最後の営業運転を行った。翌12月1日に「さよなら運転」を行ったが、この時にかつての帯の「ひげ」をクハ5722に追加した。若葉台 - 新宿 - 京王多摩センター - 若葉台を2回運転し、午前と午後の運転の間には若葉台で撮影会も実施した。このさよなら運転は招待制であり、1,000人(午前・午後各500人)が公募されたが、実際の応募者が3,000人余りに達したことから、京王では落選通知のはがきを撮影会場に持参した人に対し、さよなら運転告知の中吊りポスターをプレゼントする程であった。さよなら運転後、6両が四国の高松琴平電気鉄道に譲渡され、1両が静態保存された。「さよなら運転」以後は最終増備車5125編成の3両が1995年(平成7年)に事業用車である貨物電車として改造された。チキ290形(長物車)と接した貫通路を閉鎖、同時に吊り輪が撤去され、クワ車内にバッテリを移設、チキを連結するため棒連結器が密着自動連結器に交換され、制動が空気のみになったものの、外見は旅客営業運転に使用していた時代の状態を保っていた。普段は高幡不動検車区で待機していることが多かったが、保線作業や工事の輸送のため、時々夜間に(ごく稀に昼間にも)運転されていた。その後、2004年(平成16年)8月1日夜中のレール運搬をもって事業用車としての使用は終了した。後継車として6000系の改造車であるデワ600形が入った。事業用車に使用されていた3両は、同年11月14日の若葉台検車区でのメモリアル撮影会にて一般に公開された後、翌12月16日 - 17日に車体を切断の上で群馬県館林市(東武鉄道・北館林荷扱所隣接地)へトラックで輸送され、解体業者に引き渡された。なお、1両の前頭部を京王れーるランドに静態保存する計画もあったが、中止されている。さよなら運転に充当した5722編成と5723編成のうち、クハ5723が東京都八王子市堀之内の京王資料館に保存されていたが、2013年4月に京王れーるランドでの保存展示に備えて多摩動物公園駅前に移動し、同年10月から一般公開が開始されている。5000系は全長18mの3ドア車で、地方鉄道で使いやすいことから、京王グループの京王重機整備が積極的に販売事業を行った結果、多くの車両が改造の上、地方私鉄に譲渡されて使用されている。いずれの会社もゲージが京王電鉄 (1,372mm) とは違う1,067mm(高松琴平電気鉄道は1,435mm)のため、台車や走行機器は帝都高速度交通営団3000系電車や京浜急行電鉄1000形電車のものを流用している。なお、最初に譲渡された伊予鉄道は種車の台車を改造したり、自社で保有しているものを使用している。これらの車両はすべて譲渡先のオリジナルカラーで運転されていたが、2012年(平成24年)7月に一畑電車2100系、同年10月に富士急行1000形電車のそれぞれ1編成2両が京王時代の塗装になっている。なお、京王電鉄・一畑電車・富士急行では、2013年(平成25年)に5000系が登場50周年を迎えることから、3社でのイベント開催を計画している。

出典:wikipedia

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