『影武者』(かげむしゃ)は、1980年(昭和55年)に公開された日本映画。監督は黒澤明。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。黒澤作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編で、戦国時代に小泥棒が戦国武将・武田信玄の影武者として生きる運命を背負わされた悲喜劇を描く。製作は黒澤以外に名プロデューサー・田中友幸が務め、外国版プロデューサーには、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスらが名を連ねた。また、黒澤とは助監督時代からの盟友である本多猪四郎が、監督部チーフとして製作に加わっている。当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』に抜かれるまで破られなかった。天正元年、その勇猛を恐れられる武田信玄とその軍勢は、東三河で野田城を攻め落とそうとしていたが、ある夜、信玄は城内から狙撃され、上洛の野望叶わずして死す。自己の死は秘匿し、幼い嫡孫(竹丸)が成長するまで3年は動かずに領地を固めてほしい、との遺言を託された信玄の弟武田信廉と重臣らは、信玄の死を内部にも明かさず、死刑寸前のところを信廉が拾ってきた、信玄に瓜二つの盗人を、信玄の影武者として立てることとする。盗人は盗み癖を見せて逃げようとしたため一度は解任されるものの、信玄が死んだこと、かつその死が織田信長や徳川家康の間者にばれたところを目撃すると、以前対面した折に受けた信玄の威厳や、助命の恩義を思い出し、自ら影武者になることを重臣たちに土下座して願い出る。信玄として屋敷へ戻った影武者は、嫡孫竹丸や側室たちとの対面を危ないところを見せながらも果たし、やがては評定の場においても信玄らしく振舞って収めるなど、予想以上の働きを見せていく。しかし信玄の存命を疑う織田信長や徳川家康は、陽動作戦を展開しだす。それに対し諏訪勝頼は独断で出陣し、武田家内には不協和音がもたらされる。勝頼は側室の子ゆえ嫡男とはみなされず、自身の子、竹丸の後見人とされており、かつ、芝居とはいえ下賤の身である影武者にかしずいて見せねばならぬなど憤懣やる方なかったのだ。しかしある日、影武者は信玄の愛馬から振り落とされ、側室に、川中島で上杉謙信につけられた傷がないことを見られてしまい、ついにお役御免となる。重臣らはやむを得ず、勝頼を武田家の総領とすることを決定するが、功にはやる勝頼は重臣たちの制止を振りきり、長篠で、織田・徳川の連合軍と相対する。三段構えの敵鉄砲隊の前に武田騎馬軍の屍が広がる中、影武者だった男は、槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進していく。当初主演だった勝新太郎は撮影開始後に黒澤と衝突し、降板した。直接の原因は、1979年(昭和54年)6月末のクランクイン直後の7月18日、勝が自分の演技を撮影するためのビデオカメラを東宝砧撮影所に持ち込んだことによる。勝はこれを自身の役作りの参考にしようとするつもりであったが、黒澤の許可を得ていなかった。勝が黒澤にビデオカメラの持込を許可するように頼んだところ、黒澤は「演技は監督である自分が見ているので信用してほしい」と言った。勝はこれに納得せず「それは解っているが、こちらはこちらでビデオを撮りたい」と再度ビデオカメラの持込を頼むも、完璧主義の黒澤は撮影現場に自らの映画のカメラ以外の撮影機材を持ち込むことを許さず「撮影はこっちでやるから大丈夫だ」と断った。このような問答をした後、勝は怒り心頭で撮影現場から出て行ってしまった。そして勝の降板となった。出演者の一人の阿藤海がその場に居合わせており、黒澤は怒った様子で「辞めてもらおう」と言った、とテレビなどで証言している。これにより、『乱』の主演が内定していた仲代達矢が代役として起用されることとなった(なお、当時の新聞上では、井川比佐志、原田芳雄らの名前が先行され報道されていた)。仲代は独自の影武者像を作り上げたが、劇場公開の際に映画を観た勝は「(映画は)面白くなかった。」「おれが出ていれば面白かったはずだ。」とコメントした。勝がビデオカメラを撮影現場に持ち込んだ理由として、勝が単に、いわゆる「メイキング映像」を撮りたがっていただけ、とする関係者の証言もある。黒澤作品の常連脚本家である井手雅人が語ったところによれば、当初は勝が武田信玄と影武者を、勝の実兄の若山富三郎が信玄の弟信廉役を演じるという、実際の兄弟関係を逆転させた配役の案があったという。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断ったため、それきりに終わった。なお若山は、「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、出演依頼を断わったその本音を述懐している。音楽では、『どん底』から『赤ひげ』までコンビを組んできた佐藤勝が黒澤と対立して降板し、武満徹の推薦で急遽池辺晋一郎が起用されることになった。武満の映画音楽のアシスタントをしていた池辺は『どですかでん』にも関わっており、その後『乱』を除く全作品を手がけることになる。なお、『乱』を手掛けたのは武満であるが、この作品でも黒澤は武満と激しく対立し、武満は降板こそしなかったものの黒澤と決別に至っている。その他、撮影の宮川一夫が体調不良(白内障)により降板している。ほとんどの出演者がオーディションで選ばれた。油井昌由樹や隆大介、清水大敬(当時は「清水のぼる」名義)、阿藤海、島香裕など、無名の俳優、新人俳優から演技経験の全くない素人までが数々の重要な役で出演した。無名時代の電撃ネットワークの南部虎弾(出演者クレジットは南部虎太となっている)、柳葉敏郎、山田五郎(クレジットなし)が、雑兵や死体役などのエキストラとして出演している。当時大学生だった鴻上尚史はオーディションに合格したが、当日の都合で参加できず、石田純一はオーディションで落とされたという。かつての勝プロの常務、眞田正典によると勝の実兄、若山富三郎の出演辞退に伴い、勝サイドは黒澤に勝の物まねショーで日本のみならず東南アジア等でも活躍していた酒巻輝男を推薦し、黒澤、勝両名の見守る中、オーディションとは別枠でスクリーンテストが行われたが、勝本人と並ぶとまるで似ておらず、また、演技も全くできなかったためNGとなった。外国版では、上杉謙信が信玄の訃報を聞く場面など、日本国内版の一部シーンが日本の歴史を知らない外国人には理解しにくいとの理由でカットされた。それだけではなく、公開時の淀川長治との雑誌対談で黒澤は「国内版は時間がなかったため編集が不十分。もっと切りたかった。外国版は時間が許す限り再編集した。」という主旨の発言をしている。
出典:wikipedia
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