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玉錦三右エ門

玉錦 三右エ門(たまにしき さんえもん、1903年12月15日(戸籍上は11月15日) - 1938年12月4日)は、高知県高知市出身の大相撲力士。第32代横綱。本名は西ノ内 彌寿喜(にしのうち やすき)。非常に寒い1903年12月15日に、高知県高知市で農家を営む家に長男として生まれた。幼い頃から人一倍負けん気が強いのは地元でとても有名で、特に喧嘩と相撲が好きだった。尋常小学校を卒業後は県内で有名な土佐玉の本家へ奉公に出たが、偶然にもその時に高知へ巡業に来ていた太刀山峯右エ門一行と出会い、その中にいた土州山を見て憧れを抱き、力士を志す。しかし父親の猛反対に遭ったが、土佐玉本家の主人に粘り強く説得してもらって納得させ、同郷の海山太郎が経営する二所ノ関部屋へ入門した。二所ノ関部屋へ入門した彌寿喜少年だが、当時の体格は身長165cm・体重67kgで体格規定を満たしていなかったため、入門から3年間は見習いとして過ごした。玉錦の四股名は師匠である二所ノ関(元関脇海山)の妻「おたま」と大錦卯一郎に因んだという。夫婦の寝物語で四股名を決められたという逸話は後世の創作とも言われているが、師匠からはそれくらい期待薄な新弟子と見られ、素質にも恵まれていなかった。1918年のある日、太刀山が「ワシを背負って土俵一周したら米1俵やるぞ」と言ったのを聞きつけてこれに挑戦。最初はもう少しで降参したが再挑戦し、今度は見事せしめた。のちに体格が基準を満たしたため、1919年1月場所に序ノ口でようやく初土俵を踏む。力士としては小兵ながら無類の稽古熱心で、当時土俵を持たない小部屋の力士たちは回向院境内の土俵に集って稽古をしていたが、それを独占せんばかりの猛稽古は膏薬と包帯だらけで、「ボロ錦」とあだ名されるほどで素質の不足を補って実力をつけた。1925年1月場所で新十両、1年でスピード入幕を果たす。しかし体格の不利は相変わらずで、それを補うために「1本差しの突進」という取り口で、時には腹に乗せての吊りもあった。小部屋ゆえ強い稽古相手がいないため、二所ノ関の配慮で出羽海部屋へ預けられ、栃木山守也・常ノ花寛市の胸を借りてメキメキ力をつけた。1928年5月場所に関脇に昇進すると、その場所では9勝2敗(優勝旗手)、同年10月場所は6勝5敗、1929年1月場所では10勝1敗で念願の初優勝を達成する。これ以降も9勝2敗が3場所(1929年3月・同年5月・1930年1月場所)と続き、現在なら横綱昇進を期待するほどの安定した好成績を続けたが、大関になれなかった。その粗暴な性格が問題視されたためと言われるが、部屋の力関係による冷遇もあった。さらに、当時は既に大関に常陸岩英太郎・大ノ里萬助・豊國福馬・能代潟錦作の4人が在籍していたため、5大関では番付の編成上バランスが悪いとされた。優勝同点の2場所はいずれも豊國が番付上位優勝制度で優勝、しかも2場所とも対豊國戦は玉錦が勝っているので、当時決定戦があれば少なくとも1回は玉錦の優勝だったと思われる。また、同時期には常陸岩が大関で2場所連続負け越しと現在なら大関陥落となる成績だが、番付編成制度が現在と異なっていたために大関に留め置かれたことも、玉錦にとっては不運だった。1930年3月場所は8勝3敗と好成績を残し、さらに能代潟の大関陥落によってようやく大関昇進を果たす。その後、同年10月場所から1931年3月場所まで3場所連続優勝を果たすも横綱昇進を見送られ、玉錦はショックからか「死んでも横綱になってやる」と言ったと伝わる。その言葉で自分を奮い立たせて臨んだ同年5月場所では、優勝なら4連覇となって横綱昇進は決定的と思われたが、場所前に師匠が病に倒れ、その看病疲れで8勝3敗に終わり、せっかく近づいた横綱昇進が再び遠のいてしまった。1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって協会脱退組からの勧誘もあったがこれを追い返し、幕内力士が多く脱退した後の相撲界を自らが屋台骨として支えた。さらに、事件の影響を受けて発足した力士会の初代会長に就任すると功績が認められ、1932年10月場所は7勝4敗とごく平凡な成績ながら吉田司家よって横綱免許を授与される。これによって、1931年に宮城山福松が引退したことで発生した「昭和最初で唯一の横綱不在」を解消した。昭和に誕生した最初の横綱である。1935年1月場所から3連覇、1936年1月場所にはついに全勝優勝を達成した。現在の観点では優勝9回はこの時点で常ノ花の10回に次ぎ、太刀山・栃木山と並ぶ2位タイだったはずだが、当時は地方場所では優勝額の贈呈が無かったことや、記録面での関心も低かったため、あまり大きく取り沙汰されることはなかった。のちに双葉山が10回目の優勝を果たした時には「太刀山・栃木山を抜く新記録」とされ、常ノ花や玉錦の名は挙がらなかった。1935年には相撲協会から二枚鑑札を許され、現役力士のまま年寄・二所ノ関を襲名、寄席「広瀬」を買い取って念願の相撲部屋「二所ノ関部屋」を創立し、ここを本拠にして弟子の確保と育成にも励んだ。また、当時は同じ小部屋だった立浪部屋にも出稽古で通い、双葉山を特に可愛がった。その双葉山にとって玉錦は上位陣の中で最後まで越えられなかった壁だったが、1936年5月場所に初めて敗れ、これ以降は本場所で双葉山に一度も勝てなかった。同場所を全勝優勝した双葉山は1939年1月場所3日目まで連勝記録を69へ伸ばしていくが、この双葉山の連勝を止めるべく、玉錦も「打倒双葉」を合言葉に対策を繰り広げていく。1937年1月場所は初日から6連勝も、左上腕骨骨折のために7日目から休場。双葉山の5連覇で唯一玉錦との取組が無かった場所で、。このあとも3敗、4敗の場所が続き、平幕相手にはまだ格段の力量差を保っていたものの(黒星は全て三役以上の力士が相手)、終盤まで優勝争いに加わっても3番手以下の成績に甘んじるようになる。。それでも玉錦は、故障で休場続きの武藏山武、好不調の大きい男女ノ川登三に代わって双葉山の連勝ストップの第一候補とみなされ、1938年5月場所千秋楽に双葉山と対戦する。結果は水入りの熱戦の末に寄り倒しで敗れ、これが玉錦にとって本場所最後の一番となった。1938年11月、玉錦は年寄・二所ノ関を襲名してから初の巡業を行なっていた。これは勧進元を付けずに玉錦自らが勧進元を勤める手相撲で、失敗時の負担を勧進元に分担してもらえない危険がある代わり、成功したら収入は全て自分のものになるというハイリスク・ハイリターンの巡業で、この時代は玉錦だからこそ出来るものだった。しかし巡業の2日目、宮崎から大阪へ向かう途中に腹痛を訴えたので医者が診察すると、虫垂炎が悪化して腹膜炎になっていたことが発覚。それも非常に危険な所まで進行していたため、医者は玉錦を病院へ運ぼうとしたが、「ワシがそんな病になるものか。どうせ冷え腹程度に決まっている」と拒否した。その後、どうにか説得して連れて行くことになったが、迎えに来るように頼んでおいた寝台自動車が到着しておらず、待っている間に蒸しタオルで腹を揉ませたところ、痛みが消えたので治ったと思ったらしく「それ見ろ」と言ったがこれが致命的だった。到着地の大阪・天保山に着き、大阪大学の教授の診察を受けたが一刻を争う容態だった。すぐに手術が必要だったが、執刀医が開腹したところ虫垂が破裂して膿が腹腔全体に広がっているのが見つかった。これは搬送前に蒸しタオルで腹を揉んだのが原因で、執刀医は驚きのあまり「玉(錦)関はこれでも何ともないのか!?」と驚愕したと伝わる。NHKの相撲解説者で弟弟子の玉ノ海によると、玉錦は手術後、水を飲むことを禁じられていたにも関わらず「喉が渇いた」と言っては氷嚢に入っていた氷を取り出してかじり、看護婦が浴衣をかけても跳ね除けるなどしたため、怖がって病室に近寄らなかったと伝わる。それでも弟子が見舞いに来ると、自身が担当した巡業の成果を心配して「どうだ、客は入ったか?」などと聞いた。しかし、手術後の患者らしく無い態度ばかり取っていたため、腹膜炎が急激に悪化して玉ノ海からの輸血も虚しく、12月4日に「まわしを持って来い、土俵入りをするんだ」と言って仰向けのまま土俵入りを行い、最後の拍手を打ったところで息絶えた。。現役横綱の死去は谷風梶之助(1795年)についで二例目(丸山権太左衛門を含めれば3例目)。後の第51代横綱・玉の海正洋は皮肉にも彼の孫弟子にあたり、さらに奇しくも虫垂炎の悪化により27歳で現役死した。玉錦は没後、現役力士としては史上初の協会葬で送られた。墓は父の出身地・本籍地である高知県香南市香我美町岸本に造られた。

出典:wikipedia

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