ロッテ・ジャイアンツ(、Lotte Giants)は、韓国のプロ野球チームである。縁故地(ホームタウン)は釜山広域市で、本拠地は同市内の社稷(サジク)球場。ロッテグループが親会社。ロッテグループのオーナーの辛格浩(シン・キョクホ、日本名・重光武雄)は日本で1969年に東京オリオンズの経営に参加し球団名を「ロッテ・オリオンズ」と改称、1971年に経営権を全面獲得した。その後、「将来は母国・韓国でもプロ野球が発足する」と見込んで、1975年、韓国のロッテ製菓の傘下で社会人野球チームを作った。そして、日本の球団にはつけられなかった憧れの「ジャイアンツ」の愛称を、この社会人チームにつけて、当時の韓国アマチュア球界で最強の戦力を構築、「ロッテ・ジャイアンツ」の名はプロ野球開始以前でも韓国では確実に認識された。1982年韓国プロ野球の発足時、ロッテグループも参入を表明した。チーム名はアマチュア時代の「ロッテ・ジャイアンツ」の名をそのまま維持して、重光オーナーの故郷である釜山・慶尚南道地域をフランチャイズ保護地域として、釜山を本拠地とするプロ球団として転向した。しかしアマチュア時代にかき集めた好選手たちは、プロリーグ発足時に定められた地元高校出身の選手に対する保有権の原則によって手放さざるを得なくなり、釜山・慶尚南道地域の出身選手だけでチームが構成された。さらに追い討ちを掛けるように、釜山出身の豪腕エース崔東原(チェ・ドンウォン)の入団が、1982年秋にソウルで開かれた世界野球選手権大会参加のため1年間見送られ、プロリーグ発足前からチームの戦力は弱体化していた。結局1982年はシーズン5位で終了。翌年の1983年は崔東原が正式加入したものの、早くも球団史上初最下位を記録した。1984年の前期リーグまではBクラスを抜け出せなかったが、後期リーグはエースの崔東原の力投をバックに優勝を達成し、韓国シリーズの出場権を獲得。年間成績では4位だったが、韓国シリーズでは一人で4勝をあげる崔東原の超人的な活躍で、巨大戦力を擁する強豪の三星ライオンズを下して初優勝を飾った。1984年の優勝後から1988年までは崔東原を中心とする投手力を武器として、5年間でAクラス4度と比較的善戦してきた。しかしポストシーズン争いに絡んだことがなかった(すなわち、前後期を満遍なくAクラス入りできる程度の成績しかあげられなかった)ため、この時期にも強豪チームという印象はなかった。1980年代はエースの崔東原に対する依存度が高すぎ、多投を強いられた彼のコンディションによってチーム成績が浮沈を繰り返すようになっていった。また当時は恒例行事のように繰り返された年俸闘争にかまけてシーズンオフのトレーニングに身が入らず、崔東原の力量も若くして衰えを見せ始めた。さらに追い討ちを掛けたのが崔の主導によって展開された選手会結成の動きであった。選手会は球団側のプロ野球廃業の脅しに屈して頓挫させられる形で収拾されたものの、ロッテ球団は選手たちに対する報復措置としてエースの崔東原と中心打者の金容哲(キム・ヨンチョル)を放出し、三星ライオンズから投手の金始眞(キム・シジン)と張孝祚(チャン・ヒョジョ)を受ける大型トレードに乗り出した。このトレードを拒否した崔東原は半年間を三星からの任意脱退の身分で送り、またトレードに巻き込まれた他の当事者たちもショックからか軒並み不振に陥った。1989年シーズンは序盤から低迷し、ついに球団史上2度目の最下位で1980年代を終えた。1990年、三美スーパースターズの監督を歴任した金振栄(キム・ジニョン)を監督に迎え、また、スーパールーキーと言われた朴東熙(パク・ドンヒ)の入団で巻き返しを図った。しかし、成績は6位に終わり、1年も満たせず金振栄をシーズン途中解任、都偉彰がシーズン終了まで指揮を執った。1991年、1984年の優勝監督である姜秉徹(カン・ビョンチョル)を再び監督に起用した。姜秉徹は思い切った世代交替に乗り出し、停滞ムードを刷新。復帰初年度にチームを公式戦4位に引き上げ、1984年以来のポストシーズンに出場させ、韓国プロ野球史上初の観客100万人動員の立役者になった。翌年の1992年は新人の廉鍾錫(ヨム・ジョンソク)の大活躍で順位を公式戦3位に一段引き上げ、2年連続ポストシーズン出場を果たした。ポストシーズンでは前評判を覆して、強豪のヘテ・タイガースとビングレ・イーグルスを連破。準プレイオフから這い上がって韓国シリーズを制覇する最初のチームになると同時に2度目の優勝を飾った。また2年連続でシーズン100万観客を超える快挙も達成した。しかし、戦力に合わない優勝は選手たちの慢心を誘い、1992年シーズン終了後、多くの選手が年俸闘争に突入。契約更改に気が向いた分、チームの戦力の低下を招き、もともと公式戦3位が妥当だった戦力から滑り落ちたチームは1993年、Bクラスに戻った。シーズン終了後、姜秉徹監督を解任した球団は、球団OBで1980年代の中心打者であった金用熙(キム・ヨンヒ)を監督に招いたが、1994年シーズンは2年連続Bクラスに終わった。1995年、チームは立ち直り、公式戦3位に返り咲いた。シーズン終了まで、熾烈な争いを通じて4位のヘテ・タイガースを3.5ゲーム差で突き放し、準プレイオフを消滅させ、プレーオフ直行を決めた。プレーオフでは上位チームのLGツインズを4勝2敗で下し、韓国シリーズに進出したが今度は第5戦で先に王手をかけながら、第7戦まで行く接戦の末にOBベアーズに敗れ準優勝に終わった。1996年は、故障者続出でBクラスに逆戻りして5位に止まる。金用熙は選手の自律性を重視して、一切のトレーニングを選手に任せる方針を取っていたが、時間が経つにつれ、この放任主義が選手たちの怠惰を招き、ついに1997年シーズンは1989年以来、8年ぶりの最下位に転落。1998年も不振が続き、2年連続最下位の屈辱を味わった。しかし2リーグ制に代わった1999年は、故障で喘いだ投手陣の復調と外国人選手のフェリックス・ホセの活躍が打線の連鎖反応を起こし、シーズン序盤から飛び出した。夏場までドリームリーグの1位の座を守っていたが、シーズン終盤、猛追を見せた斗山ベアーズにリーグ首位の座を明渡し、2位でシーズンを終了した。だが、プレーオフで1勝3敗の劣勢を覆して三星ライオンズを下す大逆転劇を演出、4年ぶり韓国シリーズ出場を決めた。シーズン終盤の順位争いに白熱したプレーオフで疲れきったチームは、韓国シリーズでハンファ・イーグルスに1勝4敗で敗れ、また準優勝に終わった。この年は公式戦の年間成績でも2位を記録して、公式戦の年間記録ではチーム史上最高の成績を記録した。2000年、成績は前年より落ちたものの、比較的に弱いチームが集まったマジックリーグに所属が変わったお陰で何とかリーグ2位の座は保つことは出来た。マジックリーグ2位の座は守ったが、ドリームリーグ3位の三星ライオンズに年間勝率で劣り、両チームが準プレーオフをする羽目になった。結局、準プレーオフで三星に敗退。これを最後に、2008年までポストシーズンに姿を現すことはなく、長い暗黒時代が到来した。再び1リーグ制に戻った2001年、チームは早くから最下位に低迷。チームを2年連続ポストシーズンに導いた金明星(キム・ミョンソン)監督が成績低下からくるストレスによる心筋梗塞でシーズン途中急逝する事態が起こってしまい、ヘッドコーチの禹龍得(ウ・ヨンドゥク)が監督代行を務めたが、チームは最下位を免れなかった。2002年は監督代行の禹龍得を正式監督に昇格させたが、チームの統率が取れず勝率2割台の惨憺な成績でシーズンの半分も消化していない62試合目で同監督を解任。日本時代からロッテ球団と縁があった白仁天を監督に迎えたが、精神力を強調する白仁天の方針は選手たちの反発を招き、2002年はシーズン100敗寸前の97敗を記録するほど情けない戦いぶりを見せた。翌シーズンも状況は変わらず、91敗で2年連続90敗で3年連続最下位。結局、2001年から2004年まで4年間でシーズン途中監督交代4度、代行を含め6人の監督を座らせる迷走で4年連続最下位。一時は年間120万人も集まった本拠地釜山のファンにもそっぽを向かれ、1試合あたりの観客動員が2000人台を切るまでに凋落し、観客動員は全盛期の10分の1にまで縮んでいった。このような事態に直面したチームは、整然な理論家で知られていた球団OBの楊相(ヤン・サンムン、)に2004年から指揮を取らせた。2004年も最下位を脱出できなかったが、2005年は最下位を脱出して5位に浮上。チームは夏場までポストシーズン争いをするほど健闘を見せ、チームから離れていったファンも戻り始めた。ところが、この年の健闘ぶりについ色気を出した球団は、その年限りで同監督との契約を打ち切った。その後、2006年は周辺の厳しい見込みにもかかわらず、チームを2度の韓国シリーズ優勝に導いた姜秉徹(カン・ビョンチョル)監督を復帰させて上位進出を図ったが、結果は7位に終わった。2007年は序盤の善戦で本拠地釜山を始め、全国的な野球人気復活の先導役になったが、中盤以降に失速し前年と同じ7位に低迷した。結局、チーム史上唯一の優勝監督だった姜秉徹監督の3度目の采配は2年で幕を下ろした。2008年からは大リーグのミルウォーキー・ブルワーズで監督経験のあるジェリー・ロイスター(Jerry Royster)が、韓国プロ野球史上初の外国人の正式監督として新監督に就任し、公式戦を3位で終え、8年ぶりに悲願のポストシーズンに進出した。準プレイオフ開幕直前では前年よりチーム力が落ちていると言われた公式戦4位の三星ライオンズより優位の前評判だった。しかし、12年連続でポストシーズン出場の貫禄を誇る三星ライオンズに力を出せず、3連敗で完敗。特に、自信を持っていた先発陣が総崩れした上、得点圏での拙攻が目についた。2009年は序盤こそ下位に低迷していたが、6月以降調子を取り戻し混戦の首位争いに顔を出し、夏場に調子を落とし4位争いに加わり、何とか公式戦4位で2年連続ポストシーズン進出に成功し、準プレーオフに出場したが、斗山に敗れた。2010年は2年連続公式戦4位で、球団史上初となる3年連続ポストシーズン進出を決めたが、斗山ベアーズに第1,2戦と連勝したものの、第3戦以降3連敗し3年連続準プレーオフ敗退となった。またこの年限りでロイスター監督も退任し、梁承虎監督が就任した。2011年は8球団1リーグ制となった1991年以降(2リーグ制だった1999-2000年を除く)最高となる公式戦2位の成績をおさめ、ポストシーズン連続出場を4年連続に伸ばし、12年ぶりにプレーオフへ進出した。2勝3敗でSKワイバーンズに敗れ、4年連続でポストシーズンの次のステージに進めなかった。同年オフには主砲の李大浩がFA(フリーエージェント)となり、日本プロ野球・オリックスへと移籍していった。2012年は公式戦4位で、斗山ベアーズとの準プレーオフを勝ち抜き、ようやくポストシーズンで次のステージに進むことができたが、次のプレーオフで2年連続SKワイバーンズに敗れた。プレーオフ敗退から1週間後の10月30日、梁承虎監督が辞任し、11月、金始眞監督が就任した。韓国シリーズに出場できなかったが、本拠地の社稷野球場でシーズン終了後に開催されるアジアシリーズには「地元枠」にて参加。権斗祚首席コーチが監督代行として指揮を執ったが、予選リーグで敗退した。2013年は公式戦5位で、2007年以来6年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。総観客動員数も約77万人と2012年比で44%も減少してしまった。2014年は公式戦7位で金始眞監督も辞任した。2014年10月、李鍾雲監督が就任し2015年は公式戦8位、低迷から抜け出すことはなかった。同年限りで李鍾雲監督は解任され、2015年10月、趙原佑監督が就任した。2016年は2年連続公式戦8位で4年連続ポストシーズン進出に失敗した。2015年終了時点で、三星ライオンズとともに、1982年の韓国野球委員会発足時から名称変更を行っていないチームである。韓国野球委員会発足当時から存続する5球団(三星・起亜・斗山・LG・ロッテ)の中では唯一公式戦1位または年間勝率の1位の経験がない。2度の優勝の内、1度目はシーズン全体では4位に当る成績でありながら、後期リーグの覇者として韓国シリーズに出場し、前期優勝の三星ライオンズを下してあげたものである。2度目は公式戦で3位にあたる成績で準プレイオフから韓国シリーズに這い上がり、公式戦1位のビングレ・イーグルスを倒して成し遂げたものである。2010年まで、本拠地・釜山広域市の近隣である慶尚南道・昌原市の馬山総合運動場野球場を準本拠地として年間何試合か主催試合を行っていたが、同球場を本拠地とするNCダイノスの創設により行わなくなった。2014年より、同じく近隣の蔚山広域市に開場した蔚山文殊野球場を準本拠地とし、時折主催試合を開催することになった。前任監督の辞任や解任の後、空席の状況で就任した監督代行まで含む。2000年以降長い間、球団は低迷したが、ファンのポストシーズンへの願望は衰えることなく、ファンの間では「(プレイオフが行われる)秋にも野球をしよう()」というのが非公式的なチームのスローガンとして定着し、「優勝はともかく、(準プレイオフ出場が可能な)4位さえすれば毎試合社稷球場を満員にさせてやる」とまで豪語してきた。そして2008年以降2011年まで4年連続ポストシーズンに進出し、そういったキャッチフレーズは現実のものになっていた。チームが好調だった1990年代前半は韓国プロ野球では初めて年間観客動員100万人突破を達成し、2008年もチームは公式戦3位に終わったが、1チームとしては韓国プロ野球史上最多の年間観客動員数である137万9735人を記録した。2009年も終盤まで激しい4位争いをしたことや、全国的なプロ野球人気の高まりと主催試合数の増加(63試合から67試合)により、前年の記録を更新する138万18人の年間観客動員数を達成した。しかし、低迷期には球団側がチーム復活の手応えを見せなかったため、本拠地釜山のファンは「神はなぜ釜山に最高のファンと最悪のチームを同時にもたらしたのか()」とインターネット掲示板などで嘆くのもよく見られた。ファンの声援の熱さは韓国で随一と言われている。本拠地の社稷球場を訪れるファンは、他球場では見られない、周辺でよく手に入れられる日常用品を用いた独特な応援でも有名である。たとえば、ナイターの試合でライターに火をつけながら点滅効果を見せる「ライター応援」(2000年代からは見られなくなった)、新聞紙を細かく裂いてポンポンを作って振らす「新聞紙応援」、試合終盤にゴミ回収用に観客に配られるオレンジ色のビニルバッグを膨らませて振らす「ビニルバッグ応援」などがある。これらの応援は誰が始めたのは確かではないが、今は本拠地社稷球場の名物として定着していて、一部の応援は他球団のファンも真似たりする。また、2万を超える観衆が球場を囲んで全方位からホームチームへの一方的な声援を送る球場は社稷球場しかないため、ビジターチームの選手は相当なプレッシャーを感じているという。ちなみに、同じ2万人以上受容のソウルの蚕室球場や仁川の文鶴球場は他地域出身者が少なくない土地柄の影響で、ビジターチームの応援団の数も相当存在する。たまに、この熱烈な応援が度を越して、観客がグラウンドに乱入して試合進行に支障を来たすこともある。年一回のプロ野球オールスター戦もロッテの選手がもっとも選ばれやすく、2012年のオールスター戦(7月21日開催予定)はロッテが属するイースタンリーグ(その他は斗山、SK、三星)の指名打者を含めたファン投票選出選手10名全員がロッテの選手となった。(韓国プロ野球オールスター戦のファン投票で同一チームの選手がすべてのポジションで選ばれるのは史上初) しかし2013年、相次ぐスター選手の流出や5位に終わったチームの成績不振もあり、年間観客動員数は770681人と最盛期だった4年前の約55%にまで減少した。2014年は前年より増加したが、それでも830820人にとどまった。2015年は主催試合数が前年の64試合から72試合に増加したが、成績不振で800962人と減少した。ファンの間では、韓国歌謡の「釜山港へ帰れ」と「釜山カルメギ(※カルメギは韓国語で「カモメ」の意)」がコンバットマーチとして定着しており、試合前などによく歌われている。日本の千葉ロッテマリーンズとは、同じ重光オーナーの下にあるため姉妹球団として社会人球団時代から緊密な関係を持っている。2000年代序盤までは、日本(オリオンズ/マリーンズ)と同じデザインのユニフォームを着用していて、日本側がユニフォームの変更に乗り出すとその2、3年後に韓国もそのユニフォームデザインを受け入れていた。この名残りで、独自のデザインのユニフォームを着用している今も、ペットマークは日本のロゴとマスコット「マーくん」のユニフォーム・キャップなどを韓国向けに変更したものを起用している。韓国のマスコットは日本のマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんに相当するものがそれぞれヌリ・アラ・ピニと命名されている。2014年現在、右胸スポンサーは日本と同じくNEXON(厳密には両国とも現地法人で、ジャイアンツはNEXON Korea、マリーンズはネクソンジャパン)が務めている。またユニフォームサプライヤーはアディダスで、これは日本(デサント)と異なる。昔のユニフォームの一つにはロッテオリオンズの水色地のビジターユニフォームを彷彿させるデザインがある。このデザインは社会人球団時代から始まって、プロとして発足した1982年から1995年にかけて着用したユニフォームのデザインであり、「LOTTE」のロゴもオリオンズのものと同じであった。キャップのマークはロッテの「L」とジャイアンツの「G」の組み合わせだがこれもオリオンズのものにそっくりであった。前述のとおり、ロッテ・ジャイアンツは姉妹球団であるロッテオリオンズのユニフォームと同じデザインのユニフォームを着用してきた。この水色のユニフォームは、現在はサードユニフォームとして、オールド・ユニフォーム・デーの時、着用してプレイしている。古くは社会人球団時代からロッテオリオンズを通じて日本のプロ野球と緊密な関係をもっていた。ロッテオリオンズのコーチを歴任した土居章介は社会人球団時代からコーチングスタッフとして貢献して、1990年は監督代行でありながら、韓国プロ野球で史上初めてチームの指揮を執った外国人コーチングスタッフとして記録されている。時折日本人指導者も在籍している。2003年には石井丈裕が投手コーチ、2006年は柳田聖人が作戦コーチ、2012年は勝崎耕世がコンディショニングコーチ、2014年から2015年まで本西厚博が一軍作戦走塁コーチ・二軍打撃コーチとして在籍していた。2016年には日本の漫画『ドラえもん』とのコラボ企画として、ドラえもんの絵が入った限定ユニホームでプレイする試合を設定している。
出典:wikipedia
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