口永良部島(くちのえらぶじま)は、屋久島の西方約12kmに位置する島。近隣の屋久島や種子島などとともに大隅諸島を形成し、島はひょうたん型をしており全域が屋久島国立公園となっている。温泉が豊富にあるほか、島の周辺は魚釣りのポイントも多いため、1年を通して観光客が訪れている。なお、「口永良部島(くちえらぶじま)」は鹿児島県熊毛郡屋久島町の大字にもなっており、全島がこれに該当する。火山島であり火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。データは、SHIMADAS(2000年国勢調査などのデータ)ほかによる。島の中心は港のある本村地区で、島の人口の大半が集中している。同地区には、役場出張所や商店、学校、ガソリンスタンド等が立地している。口永良部島は、薩南火山群島最大の火山島で、気象庁による『常時観測火山』に指定されている。複数の安山岩質の火山からなり特に東側の火山は新鮮な火山で仁田尾山 (526m)・三角点山 (600m)・古岳 (657m)・新岳 (626m) があり、古岳火山南西から南東山麓には複数の安山岩質溶岩流が発達する。新岳の火口は直径200m。活動開始時期は不明で、50万年前頃までには海面上まで成長していたと考えられている。高堂森火山は約10万年前頃までに、野池火山の主部は約1万年前ごろまでに形成され、15,000年前から11,000年前にかけて2回の大規模な火砕噴火を生じた。最近1万年間の活動は、「古岳」「新岳」「鉢窪火山」で発生している。昭和以降、2015年までに10回近くの噴火記録がある。目撃記録は無いが、古岳火口でも江戸時代末まで噴火が発生していた。口永良部という地名は江戸期より見え、当時は「口之永良部島村」と称しており、大隅国馭謨郡(ごむぐん)屋久島のうちであった。村高は「天保郷帳」では142石余、「鹿児島県史」では184石余であったが、全て島役の扶持米として支払うこととなっていたという。1889年に町村制が施行されたのに伴い、屋久島の北部にある7村と口永良部島村が合併し島域の全体が、上屋久村の大字「口永良部島」(1958年の町制施行の際も同様)となり、2007年に上屋久町が屋久町と合併し屋久島町となり、屋久島町の大字「口永良部島」となった。詳しくは、『口永良部島・歴史年表』を参照。町役場の出張所があり、行政に関わる業務のほかフェリー乗船券の発券業務なども行っている。診療所が1軒ある。また、救急医療の場合はヘリコプターにより鹿児島市内の病院へ搬送することができる。小学校と中学校がそれぞれ1校ずつ設置されているが、いずれも各学年0人または一桁の児童・生徒数である。なお、小学校では複式学級の編成がとられている。両校とも、里親方式による山村留学「南海ひょうたん島山海留学制度」を実施している。このほか、三島村の各島との交流も盛んに行っている(主に漁船で移動)。屋久島町から区域外の高校を受験するさいにはいわゆる「5%枠」の適用があるが、島民は同枠の適用から除外されている。町営および私設の牧場がいくつかあり、牛が放牧されている(たまに道端で出会う事がある)。明治中頃には硫黄の採掘が行われており、一時期は人口が1,000人を超えた頃もあった。しかし、1931年に発生した新岳火口の噴火によって向江浜事業所は破壊され、新たに建設された七釜出張所も1933年に発生した噴火により多大な被害を出して壊滅し閉鎖された。島で唯一の金融機関として「口永良部郵便局」が立地している。商店は、Aコープの出張所のほか2軒が立地している。宿泊施設は、本村・前田・田代・湯向の各集落に民宿がある。町営航路(フェリー)が1日1往復、屋久島および種子島とを結んでいる。空港はないが、折崎岬に場外離着陸場である口永良部ヘリポートがあり、災害時などに利用される。なお島内に公共交通は存在せず、観光客などは民宿の送迎に頼ることになる。町営による船舶事業は1972年、民間の折田汽船が運航していた航路の撤退を受けて同年12月より運航が開始された。なお、当島と他島を結ぶ唯一の公共交通機関であることから、1973年10月に国庫補助航路となった。しかし、慢性的な歳入不足および「フェリー太陽」の建造時における資金調達計画の不備などにより町の船舶事業特別会計が慢性的な資金不足となっていることから「経営健全化計画」が策定され、2009年度から4年間の計画で実施されている。
出典:wikipedia
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