泡盛(あわもり)は米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、酵母でアルコール発酵させたもろみを一度だけ蒸留した琉球諸島産の蒸留酒である。単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)の一種。3年以上貯蔵したものは古酒(クース)と呼ばれる。泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の調味料としても多く利用されている。1671年に琉球中山王が徳川家へ献上した物の目録に泡盛とあるのが文献上の最古であり、それ以前は、琉球酒や焼酎と記載されていた。泡盛は琉球では「あわむり」または「あわむい」というが、1671年に琉球中山王が徳川家献上した品の目録に「泡盛酒」と見えるのが最初で、それまでは焼酎と記されていた。薩摩国などの焼酎とは違う酒と示したものと考えられるが、「泡盛」の名の由来としてよく語られるのが、蒸留の際、導管から垂れてくる泡盛が受壷に落ちる時、泡が盛り上がる状態を見て「泡盛る」となり、転じて「泡盛」となった。実際、琉球では蒸留した酒を茶碗に入れて泡立たせ、徐々に水で薄めて泡が立たなくなるまでそれを繰り返すことによってアルコール度数を決定していた時期がある(現在はアルコール分1%を越える物が酒)。これは、蒸留酒に含まれる高級アルコールなどの起泡性成分の含量がアルコール度数に比例することによる。文書の上では、1762年に土佐藩が台風で漂着した楷船に乗っていた官吏から聞き書きした『大島筆記』に「泡盛とは、焼酎の中、至て宜きは蒸して落る露微細なる泡、盛り高になる。それを上とする故也と云えり。」との記述がある。この他に、献上品を指すアワモラチによるという説、『臨海水土志』に見える「粟を以て酒を為り」のようにアワでみきを造っていたことによる説、サンスクリット語の酒を意味する語から来ている説などがある。しかし、泡盛という呼び方は本土側が特産品としてそう呼んでいたのであって、琉球では、単に「サキ」や「焼酎」と呼んでいたという指摘もある。なお、第二次世界大戦後の一時期、奄美群島では泡盛という名で現在の黒糖焼酎に類するものが作られていた例があり、黒糖を使ったことを示す意味で純良泡盛と呼ばれた例もある。「シマーグヮー」という呼称も存在する。『酒税法』(第3条)上では単式蒸留しようちゆう(旧焼酎乙類)に分類される。政令ならびに財務省令によると、旧焼酎乙類の内、「米こうじ(黒こうじ菌を用いたものに限る。)及び水を原料として発酵させたアルコール含有物を単式蒸留器により蒸留したもの(水以外の物品を加えたものを除く。)」については、酒類の種類(品目)の表示を「泡盛」とすることができるものとされている。なお、酒税法で単式蒸留しようちゆう(旧焼酎乙類)のアルコール分は15℃下の容積比で45%以下と定められているため、蒸留された原酒に加水して調整する必要がある。与那国島(与那国町)に特例で製造が認められているアルコール度数60%の銘柄(花酒と呼ぶ)は酒税法上「スピリッツ」となるが、この度数では税率の上での差異はない。花酒には「どなん」、「与那国」、「舞富名」の3銘柄があり、皿に広げるとアルコールが揮発し、容易に火がつく。地域団体商標制度により「琉球泡盛」が認定されている。「本場泡盛」、「琉球泡盛」を商標に使用できるのは沖縄県で作られたものだけとされている。第二次世界大戦の終戦直後までは鹿児島県の奄美群島でも製造されていたが、現在は作られていない。なお、一部のメーカーが、台湾、モンゴルなどに酒造所を所有している。原料の米は、現在主にタイ産インディカ米の砕米が用いられるが、近年では地産地消の動きに伴って県内産のジャポニカ米を使ったものも生産されている。ただし、インディカ米は蒸した後の粘りが少ないため、製麹機で加工しやすく、製品の芳香も遜色がない特徴を持つ。泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の調味料としても多く利用されている。製造時の副産物であるもろみかす(酒粕)の一部はクエン酸を含む「もろみ酢」に加工、販売され、近年の健康ブームの中で人気を得ている。泡盛は蒸留酒であるが、アルコール度が40度を超える高いものから、20度までの比較的低いものまで市販されているため、幅広い飲み方が楽しめる。ストレート、オン・ザ・ロック、水割り、お湯割り、炭酸割り(ソーダ割り)などのほか、地元では烏龍茶割り、コーヒー割り、牛乳割りも行われ、また沖縄特産品を使用したシークヮーサー果汁割りやウコン割りなどでも飲まれ、また、カクテルベースとしても用いられて、様々なレシピのカクテルが考案されている。(別項参照)一般的に多くされる飲み方は水割りであるが、熟成された古酒をより深く味わうのならストレートということになる。この場合、猪口と、泡盛用の伝統的な酒器であるカラカラ(多くは壺屋焼だが、ガラス製のこともあり)が使われる場合が多い。また、水割りなどのときは琉球ガラスのグラスがよく使われる。酒の蒸留技術は14世紀後半から15世紀頃にシャム国(現在のタイ)から琉球に伝えられた。それとともに蒸留器、タイ米、貯蔵用の甕などがもたらされたが、琉球の気候に最適な黒麹菌の導入などの改良によって、新たな蒸留酒、つまり泡盛が誕生したと考えられている。1460年、第一尚氏王統の尚泰久王が朝鮮に使者を派遣し、このとき朝鮮国王・世祖に天竺酒を贈っている。天竺酒の製法について、「桄榔樹の漿、焼きて酒を成す」と記されているので、サトウヤシ(桄榔)を原料としたヤシ酒(蒸留酒)と考えられる。おそらくアラックのようなものだったのであろう。また、1478年、朝鮮漂着民が沖縄本島の那覇での見聞として、清酒、濁酒、さらに南蛮酒があり、この南蛮酒の味は、朝鮮の焼酒のようであるとの記述がある。1534年、明からの冊封使・陳侃が琉球に赴いたときの記録『陳侃使録』に、「南蛮(南番)酒」のことが記されており、この南蛮酒は暹羅(シャム、タイ)からもたらされたものであり、醸法は中国の露酒であると記されている。米を原料とした蒸留酒が沖縄でいつ造られるようになったのかは定かではないが、東恩納寛淳が1941年の『泡盛雑考』等の論考で、タイには類似の蒸留器が見られたことから、「ラオロン」が起源ではないかと推測して以来、この説が有力である。泡盛は、15世紀から19世紀まで、奉納品として中国と日本の権力者に献上されていた。日本へは、島津氏を通して徳川幕府に献上されたが、公式には『徳川実紀・駿河記』の慶長17年(1612年)に「琉球酒」として登場する。その後、「焼酒」の名を経て1671年(寛文11年)以降、「泡盛」となって今に至る。沖縄戦では多くの酒造場が被害を受け、終戦後には原料の米も食料用すら不足する状態で泡盛の製造ができなくなり、燃料用アルコールを飲む者までいたという。このため1946年、当時の沖縄民政府が米軍の許可を得て官営の酒造工場を設置した。米は使えないためチョコレートやソテツの実から採るデンプンが原料に用いられていた。1949年には民間の酒造場が認可され、泡盛造りも徐々に復興した。その過程で米軍が不要となり放出したビール瓶やウイスキー瓶に泡盛を詰めて販売したため、現在でもその名残で本来540mlである3合瓶が600ml入りになっていたり、ウイスキーの瓶に似た茶色の瓶に詰められている泡盛が存在する。いわゆる「アメリカ世」(ゆ)ではビールやウイスキーが普及し、一時は数百場あった泡盛の蔵元は大きく減った。近年は本土への販路拡大や質の高い古酒の生産などで盛り返しをはかっている。2003年から泡盛のルーツとなったタイ産もち米焼酎の南蛮古酒が、現地タイのトータイネットワーク社から販売となり話題となっている。48場の酒造所(2011年12月時点)と多くのメーカーがあり、代表銘柄以外にも多くの銘柄が存在する。たいていは地域にちなんだものや、縁起の良さそうな名を持っている。かつては単に泡盛という名を持つものもいくつかあった。消費の割合は沖縄県内が8割で他地域が2割と推定される。沖縄県内で一般に流通しているもののアルコール度数は30%であるが、県外への移出や飲みやすさを考慮して25%にしたものが多く、また、減圧蒸留で製造された軽い風味のものも増えつつある。一方、長期熟成用の原酒にはより度数の高いものも多数ある。保管中にアルコール分の揮発等により度数が低くなるためである。伝統的な古酒を造るための原酒として、ろ過を抑えた泡盛も販売されている。新酒では欠点となる成分でも、熟成中に変化して、長所となると考えられているためである。泡盛の製造地域は、大きく分けて酒造組合のある6つの地域に分けられる。中心都市であり、琉球王朝の王府のあった首里地区を有する那覇市の酒造所の泡盛がよく流通している。琉球王朝時代、首里地区の首里三箇の酒造所のみ公認であったため、狭い地域に集中していた。しかし、沖縄戦で壊滅し、首里に戻って製造する蔵元は少数に留まった。現在は各地や離島の銘柄にも人気の高いものがあるが、本島北部の泡盛は生産量が少ないためあまり流通していない。本島中部、南部は、戦後、首里地区から移転した酒造所等もあり、比較的近代的、大規模な酒造所が多い。本島周辺の離島である久米島等でも製造されている。宮古諸島の酒は口当たりがよく飲みやすいものが多く人気が高い。宮古島は、酒豪が多い沖縄県でも、特に酒に強い人が多いとされており、オトーリという酒の飲み方は有名である。この風習のため飲みやすい泡盛が多いと考えられる。八重山諸島の酒は離島の小規模業者により生産されていることが多いため個性的である。なお、大東諸島は明治時代に伊豆諸島からの移民が開拓した島であるため、泡盛の製造は行われていない。一般には熟成が3年未満の一般酒が流通する量が多く、多くの蒸留酒で寝かせてから販売されるのが普通であることと比較すると、やや特殊な例に当たる。昭和末までは、ほとんど二合瓶、三合瓶、一升瓶で出回り、特に手頃感のある三合瓶に人気があった。三合瓶と称されているが、他の焼酎と異なり、泡盛の容量は600mlである(沖縄戦後に米軍の放出したビール瓶に泡盛を詰めて販売した名残と言われている)。二合瓶、三合瓶とも、一升瓶をやや寸詰まりにした形である。瓶も蓋も全銘柄共通で使われ、一升瓶と同じ柄のラベルが貼られていた。現在では、様々な形の瓶やそのまま寝かせるための甕、記念品や土産として琉球ガラスや陶器に詰められた泡盛も流通している。泡盛を寝かせると、アルコールの刺激が和らぎ、こくや独特の香気が出てうまくなるので、古酒(クース)と称して珍重される。一般的には、10年程度までは貯蔵期間が長いほど上質になるとさる。また、仕次ぎという減った量やアルコール分を注ぎ足す手法で、さらに長期間品質を劣化させることなく熟成させることも行われている。かつては琉球王朝時代に200年物や300年物が存在したとされるが、それらは沖縄戦によりほとんどが失われ、今では首里の識名酒造に貯蔵された150年物の古酒が現存するのみである(販売されることはない)。「泡盛の表示に関する公正競争規約」によって、古酒と表示する場合には「全量を3年以上貯蔵したもの又は仕次ぎしたもので、3年以上貯蔵した泡盛が仕次ぎ後の泡盛の総量の50パーセントを超えるものでなければ古酒と表示してはならない。古酒の表示に代えて、クース又は貯蔵酒若しくは熟成酒と表示することができる。貯蔵年数を表示する場合は、年数未満は切り捨てるものとする。」と定められている。長期貯蔵酒の規定は単式蒸留焼酎の公正競争規約にもあり、3年、50%超の要件は同じである。本土並み課税を見込み、一般酒の価格競争力がなくなったとしても単価の高い古酒で対応すべく、古酒の基準を厳格化して品質向上を目指す機運が生じた結果、2004年6月から、沖縄県酒造組合連合会により自主基準が導入された。この基準では、「10年古酒」と表示することができるのは、10年古酒100%、ブレンド古酒の場合は原酒には最低10年を経た古酒を使用したものである。ブレンド古酒の場合は、「5年50%、3年50%」などのブレンド比率の表示も可能である。また、瓶詰め日の明記も義務付けられた。伝統的には、一定期間に一本ずつ、選び出した泡盛で満たした南蛮甕を貯蔵し(順に親酒、二番手、三番手……と呼ばれる)、ある程度年数が経ったところで、最も古い酒である親酒を掘り出し、きき酒を行った上で慶事等の際飲用に供される。「親酒」を飲んだり、甕からしみこんで減った分は、その分だけ親酒に二番手を、二番手に三番手を…というように順次新しいものを古いものへ補充し、最後に最高の番手の甕に新しい酒を補充する。この方法を仕次ぎ(しつぎ)という。古くなるとアルコール分が減り、腐敗する場合もあるため、仕次ぎを行うことは品質保持の上でも非常に重要である。最低でも、甕を3個用意し、三番手まで作るのが望ましいとされる。多くの酒造所で、様々な方法で貯蔵されているが、現在、効率性の観点から多く採用されている貯蔵方法はステンレスタンク貯蔵である。泡盛は瓶詰めされたものを寝かせても熟成がすすみ古酒化するとされているが、瓶、ステンレスタンク、ホーロータンク、甕、樽と異なる容器で熟成された古酒は風味が異なる。先に挙げた方法ほどアルコールの減少が少なく、泡盛本来のクリアな風味となり、後者になるほどアルコールが揮発し丸くなりやすく、容器から溶出した成分のため複雑な風味となるといわれている。瓶内でも熟成されると考えられているため、家庭でも新酒をそのまま寝かせることにより古酒にすることも可能である。かつては本土に出荷した泡盛の売れ残りが送り返されることがあり、製造業者は古酒になっているため喜んで引き取っていたが、本土の業者にも熟成のことが知れ渡ると売れ残りが送り返されることがなくなったという。現在の紙パック製品も、焼酎類ようのものにはアルミニウム箔の層が入っていて、気密性、遮光性が高いため、未開封のまま数年間置くことで熟成は進められる。古酒は、利益を出すまでに年月がかかるため、企業にとってはハイリスク商品である。また、泡盛業界は零細事業所が多いため信用力が低く、必ずしも思った利益が出るとは限らない長期事業に銀行が貸し渋りする傾向がある。そのため、損益確定が早い一般酒に力を入れる動きが泡盛業界には多い。こうした条件に対応するため、1976年より沖縄県酒造協同組合が各酒造場の生産する泡盛の原酒を仕入れ、ブレンドしたのち、長期貯蔵により古酒として出荷する事業を行っている。同組合には沖縄県内全46場が参加している。また、近年の法整備により貯蔵中の泡盛を担保とする融資制度が、2007年に沖縄振興開発金融公庫より開始された。沖縄県内産以外であっても、材料・製法を踏襲すれば「泡盛」や「クース」と表示出来ることを利用し、モンゴルなどの、人件費や地価が極端に安い外国で製造する動きも始まっている。年数を要する貯蔵まで現地で行おうというものである。なお、一般の泡盛の不良在庫(デッドストック)の分を「古酒」として売ることも出来る。この場合、保存状態により品質にばらつきが出るため、味の調整をしてブレンド古酒として商品になる。2012年3月に「沖縄県酒造組合連合会は7日、泡盛古酒の不当表示で、日本酒造組合中央会(東京)が県内9メーカーに違反行為の排除などを求める警告や指導の処分を出していたことを公表した。」「中央会の処分は2月13日付だが、県酒連がホームページで公表したのは、取材後の3月6日の深夜だ。それも処分の結果を記すだけで、違反行為の具体的な内容は明らかにされていない。」と新聞に報じられた。1972年の本土復帰後から、沖縄県には酒税軽減措置がとられてきた。県内出荷向けに限り、本土の酒税と比べ、復帰直後は60%軽減された。優遇税率は5年間の時限措置であったが、5年ごとに見直されるだけで延長が繰り返され、一時は-15%までになったが、1990年からは-35%になっている。発泡酒や第三のビールなどの酒税強化の流れの中、2002年の延長決定の際には、自民党税調から「(優遇は)今回限り」との発言があり、財務省も「激変を緩和する役割を終えた」として2007年の酒税軽減措置廃止は既定路線となった。県庁も2002年の税調などの見解に沿い、酒税軽減措置の再延長を求めないとしていた。しかし、泡盛業界の強い要望や、2006年の県知事選で政府寄りとされる知事が当選したことにより、酒税軽減措置の再延長が政治的に決定された。2012年3月、普天間基地問題の対策のひとつとして、『沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律』に基づく酒税の特例が延長され、2017年5月14日まで軽減税率が適用されることとなった。泡盛業界は、従業員9人以下の零細事業所が全体の6割を占めている。酒税の軽減総額は泡盛業界の年間の利益総額よりも大きく、軽減措置を廃止された際増税額が価格転嫁できないと仮定すると、利益はなくなり赤字となる。一方、価格転嫁が順調に進んだ場合でも、出荷量の減少による利益の減少や県民生活への影響は避けられないとされている。現在県内の消費は飽和状態であると考えられているため、従来の流通形態では成長が見込めない。酒税軽減廃止への対応と泡盛市場の拡大のため、県外出荷量の増加は重要であると考えられている。沖縄ブームによって2004年まで県外出荷量は拡大したが、以後は期待されたようには推移していない。原因としては、前述にあるような泡盛企業の一般酒への傾倒、基準の厳格化による古酒の減少、芋焼酎を初めとした焼酎との競合、ブームの沈静化等が考えられる。注ぎ口の付いた扁平な形の泡盛用徳利。壺屋焼のものが多い。中身が空の時に振ると音のする玉入りのものもある。もともとは泡盛を携行するための注ぎ口がついた水筒。おおむね四角いが紐を通して肩にかけるため体に沿うよう湾曲した形(上から見ると三日月型)になっている。現在では実用品というより、置物や壁掛け、花器として用いられることが多い。琉球王朝時代から使われているお祝いの際の贈答用容器(酒器)で、中ほどがくびれたひょうたん型で首が長い徳利。過去の慣習では、贈るのは中身の泡盛だけであり、器自体はあとで返却してもらうリターナブル瓶形式であった。そのため家紋が入ったものもある。神事の際のお供え用酒器。形は嘉甁に似ている。名前の由来は渡名喜島からだが、この形のものが最初に渡名喜島から壺屋に注文されたからとか、水平にした時の断面が渡名喜島に似ているからというような説がある。泡盛保管用の縦長の甕。荒焼き(素焼き)で、鬼の手に似ていることからそう名付けられた。通常は一升以上入る大きなもの。ガラスビンが普及する前はこれに入れて小売りされていた。
出典:wikipedia
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