テッド・ウィリアムズ(Theodore Samuel "Ted" Williams, 1918年8月30日 - 2002年7月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身のプロ野球選手。右投左打。ロジャース・ホーンスビーと並び、メジャーリーグベースボール(MLB)で三冠王を2度獲得した。通算出塁率.482はメジャー歴代1位であり、。に打率.406を記録。時点でMLB最後の規定4割打者である。、サンディエゴで生まれる。名前の"Theodore Samuel"は、彼の父サミュエル・スチュアート・ウィリアムズと大統領セオドア・ルーズベルトにちなんで名づけられた。地元サンディエゴのハーバート・フーバー高校時代からその才能は注目され、高校在学中には既にセントルイス・カージナルスやニューヨーク・ヤンキースからのオファーを受け取っていた。しかしサンディエゴを離れるにはまだ若すぎると母親が反対したため、ウィリアムズは当時まだマイナーリーグに所属していた地元のパドレスと高校在学のまま契約を交わした。ウィリアムズはマイナーリーグで上記のパドレスとミネアポリスに所属し、メジャーリーグ昇格の機会を伺っていた。にメジャーデビュー。1年目から活躍し、打率.327、本塁打31本、145打点の活躍で打点王のタイトルを獲得した。には打率4割の期待がかかり、シーズン最終日にフィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーを残して打率.3995。打率は毛を四捨五入して厘の値までとなり、この時点でも記録上は打率4割となるため、周囲からは欠場を勧められた。しかしウィリアムズはダブルヘッダーに出場。最初の打席で、球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」と言ったという。ウィリアムズは同2試合で8打数6安打を記録し、打率4割を6厘上回り、23歳1ヶ月で、にジョー・ジャクソンが打率4割を記録した24歳2ヶ月という4割打者の最年少記録を塗り替え、首位打者・本塁打王のタイトルを獲得した。これ以降、メジャーで打率4割を記録した者はいないため、最年少記録を出した選手が最後の打率4割達成者となっている。また、試合に出場した理由として、四捨五入で4割となるため実際は4割ではなかったと言われるのが嫌だったと語っている。同年シーズンは打点が120で、あと5打点稼いでいれば125打点のジョー・ディマジオに並び三冠王だった。には自身初の三冠王を記録。にはメジャー最多タイ記録の2度目の三冠王を記録している。にも三冠王のチャンスがあったが、最終戦に1毛差で打率を逆転されて首位打者を獲得できず、三冠王を逃した。には打率がリーグトップであるが当時の首位打者の規定である400打数に136四球が影響して386打数で届かず、逃している。このため、シーズン前に打数ではなく、打席を採用することが決定している。第二次世界大戦と朝鮮戦争による2度の従軍があったものの、の引退までレッドソックスの主軸として活躍した。通算打率.344、521本塁打はレッドソックスの球団記録である。"Untouchable"と言われる出塁率5割を3度も達成し、通算出塁率.482はメジャー歴代1位。また、通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位である。、アメリカ野球殿堂入り。からの4年間は第3次ワシントン・セネタース及び後身のテキサス・レンジャーズの監督を務めた。2002年7月5日、死去。背番号9はレッドソックスの永久欠番となっている。死の直前、自分の死体を冷凍保存する旨の遺言を残したなどで物議を醸した。長男は冷凍保存を望み、長女は火葬して遺灰を海にまく事を望んだ。一審では長男の勝訴となったが、長女の要求した再審の結果、双方の意見を尊重し、遺体の頭部を冷凍保存、胴体以下を火葬とする判決が出された。現在は実際に頭部のみアルコー延命財団で冷凍保存されている。また、長男はその数ヵ月後に急性白血病により亡くなっており、本人の希望により同財団に冷凍保存された(英語版「」より一部翻訳。詳細は英語版を参照のこと)。生涯を通じて釣り、とくに海釣りを趣味とし、シーズンが終わるとそのままフロリダ州まで行って海釣りに興じていたこともある。また、釣りの雑誌の表紙に出たこともあった。頑固な性格であった。堅苦しいことを嫌い、服装に於いてもネクタイの着用を拒否し続けた。ファンやメディアとの関係も友好的とは言えず、その圧倒的な実力を認められながらジョー・ディマジオのような大衆の人気を得ることはなかった。実はルーキーの頃は彼は快くサインに応じていたが、狭いフェンウェイパークの外野の野次などがファンやメディアとの関係を悪くしたと云われている。引退試合においても通常通りプレーし、試合終了後にもセレモニーどころか帽子を取って観客に応える仕草ひとつ見せず、グラウンドを去った。ファンやメディアからは当然不満の声が上がったが、ニューヨーカー誌記者で、後に作家となるジョン・アップダイクはこの一件について「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。しかし、最後の打率4割到達から50年後の1991年5月、フェンウェイ・パークにおける記念式典に招かれた際には、「新聞記者達は、ウィリアムズは偏屈で帽子を取って挨拶もしないと書き続けたが、2度とそんなことは書けないだろう」とスピーチした後、レッドソックスの帽子を振って客席に向かって挨拶をした。人種問題について、進歩的思想の持ち主であった。黒人であるウィリー・メイズが通算本塁打記録でウィリアムズを追い越しかけた頃、ウィリアムズはメイズに対し「レッツゴー、ウィリー」と激励したという。野球殿堂入りを果たした際の式典スピーチでは、サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンなどニグロリーグで活躍した名選手たちの殿堂入りを訴えた。トニー・グウィンと親交が深かったことでも知られ、グウィンを釣りに誘ったこともある。打率4割を打った1941年にも、また、2度の三冠王を獲った1942年、1947年にもMVPに選ばれなかった。特に1947年に関しては、シーズン中に地元ボストンのある記者と記事を巡ってトラブルがあり、三冠王を獲ったにも関わらずその地元記者が10位までにウィリアムズの名前を書かなかったため、僅差の得票で敗れた(ただし、1946年と1949年にはMVPに選ばれている)。並外れた動体視力を持ち、78回転のレコードのラベルを読むことが出来た。さらに空軍時代は、その目を生かして敵機を多数撃墜していたという。また、動体視力に加えて記憶力にも優れており、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとされる。ウィリアムズの著作『バッティングの科学』は、この日々の記録を元に著された。ウィリアムズには野球人生で3つの悔いがあった。1つ目はワールドシリーズのひのき舞台を踏んだのが1度だけで、カージナルスに敗れてチャンピオンズリングを手にできなかったこと。2つ目は第二次世界大戦と朝鮮戦争での兵役で選手生活を5年近く中断されたこと。そして3つ目は「俊足」に恵まれなかったことである。1957年、打率3割8分8厘で史上最年長39歳で5度目の首位打者を獲得したが、ウィリアムズは「もし自分にもう少しスピードがあって、あと5本のヒットを内野安打で稼いでいたら、2度目の打率4割を記録できていた」と終生悔しがっていたという。試合前の打撃練習にて、「たまらないなあ、何で俺はこんなに凄いんだろう?」、「面白すぎて一日やっても飽きないな」、「練習するたびに、どんどん打撃がうまくなるな」などの独り言を言っていたという。また、周囲が夜遊びに街に出る中、ウィリアムズは夜十時には就寝し、煙草も吸わずにいる等、自己管理をしていたという。ウィリアムズの強打に対して、クリーブランド・インディアンスの監督ルー・ブードローは、内野手を右に寄せるブードローシフトと呼ばれる作戦をあみ出した。この作戦は、後年、日本プロ野球で王貞治に対して組まれた王シフトの原型となった。引退後に「特に第一ストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣。と言うのはストライクを逃せば、それだけ打者に不利なカウントになる。そうすると投手も思い切ってドンドン投げてくる。こんな簡単な事が分からない打者が今の野球には多過ぎるんじゃないかな。第一ストライクを打つ打者が沢山いるチームは必ず好成績をおさめる。また、それこそがプロ野球だ」と述べている(彼自身は四球が多い打者だった)。野村克也は現役時代、打撃不振に陥った頃にウィリアムズの著書と出会い、その中で「ピッチャーは、投げる際に既に球種を決めており、球種によって体の動きに微妙な変化が出る」という旨の記述を読み、これをきっかけにピッチャーのクセを研究するようになったという。 亡くなる前の2002年のインタビューで、「次に打率4割を達成する打者は誰か」というインタビューに対し、「イチロー」と答えた。
出典:wikipedia
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