日本プロ野球における黒い霧事件(くろいきりじけん)は、プロ野球関係者が金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる一連の疑惑および事件。新聞報道などをきっかけに、1969年から1971年にかけて相次いで発覚した。日本野球機構は八百長への関与について「(野球協約第355条が規定する)『敗退行為』に該当する」との見解を発表。関与が疑われた現役選手には永久出場停止(追放)、長期間の出場停止、年俸減額などの処分を下した。また、上記の選手の一部はオートレースの八百長事件にも関与。この事件では現役のオートレース選手19名が警察に逮捕されている。1969年のペナントレース中に、西鉄ライオンズ(後の埼玉西武ライオンズ)のフロントは、自軍の選手が八百長を演じているのではないかとの疑惑を抱き、極秘に調査を開始。調査の結果、投手の永易将之が公式戦で暴力団関係者に依頼され、わざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を行っていたことを理由に、西鉄は永易をシーズンオフを以て所属契約の更新を行わず、解雇とすることを決定する。一方、報知新聞の西鉄の番記者にカール・ボレスが「ウチにわざとミスエラーする選手がいる」と囁いた。そこで報知新聞は、読売新聞の社会部と共同で取材を進めた。そして、球団社長の国広直俊は、読売新聞と報知新聞の取材に対して、球団が自軍の疑いのある選手を調査したところ、「残念ながら事実でした」と認めたうえ「永易ら3人について調査したが、他の2人の選手は永易に誘われ、一時、八百長に加わっただけですでに反省しているので処分の対象としなかった」と答えた。10月8日、読売新聞と報知新聞が永易が公式戦で八百長を演じていたと報道。この報道を受けて、球団社長の国広が午前11時半より福岡市内の球団事務所で記者会見した。国広は、「永易が八百長をやっていたという確証を突き止めたわけではないが、素人の私の目から見ても八百長を演じているのではないかという思える節があり、本人を呼んで問いただすと本人は否定も肯定もせずただ震えているだけだった、この態度から永易は野球トバクに手を染めていると確信した」などと語った。一方、永易の福岡市内のアパートには新聞報道を受けてマスコミが殺到、永易は「自分はやましいことはないが、こうなっては今更何を言っても聞いてもらえないでしょう」といい、普段着のまま自宅を出て行き行方をくらませる。西鉄の監督兼選手の中西太は9日に球団に対して辞任を申し入れた。西鉄本社とオーナーの楠根は慰留したが、中西の退団の意思が固く、22日、退団を認めることになった。同日の午後2時に福岡市内の西鉄本社にて記者会見し、正式に発表した。13日にパリーグの定例の理事会が東京の銀座の連盟事務所で開かれた。国広は「永易が八百長をやっていた直接の証拠は突き止められなかったが、心証として八百長をやっていたことは間違いなく、その証人もいる」と述べた。パリーグ会長の岡野祐は、疑惑の挙がった選手を何ら処分しないのはおかしいとして、永易を野球協約の中の条文の失格選手として処分することした。翌14日、コミッショナー委員会(当時はコミッショナーの権限については委員長宮沢俊義、金子鋭、中松潤之助の3人が合議制で担当した)が開かれ、宮沢は、永易を失格処分とすると永易は球界と関係ない人物となって本人の呼び出しなどの調査が出来なくなると岡野の処分案に反対し、永易は野球協約の中の有害行為に関する条文で制裁が可能であると指摘した。読売、報知の報道と同じ頃、創刊間もない『週刊ポスト』が野球賭博を追及する記事を掲載し始める。10月17日号では暴力団による野球賭博の実態に迫った記事を掲載すると、翌10月24日号では、永易以外にも「疑わしい」選手の名前を実名を挙げ、その記事内の「田中勉も一役?」の中で、当時中日ドラゴンズに在籍していた投手の田中勉が西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところと報じた。これに対し、田中は記事の内容は事実無根だとして10月21日に弁護士を伴って『週刊ポスト』編集部を訪ねて抗議し、謝罪と記事の撤回を求めるが、編集長の荒木博は拒否。10月16日、夕刊フジ記者の住谷礼吉が福岡から大阪へ向かう飛行機の中で永易を発見、永易は住谷に対して「神に誓ってやっていない」、「球団社長を告訴する」と八百長を否定したが、「今更何を言ってもムダだ」とも述べた。住谷は永易に対してコミッショナーのもとへ出頭するよう勧めたが、結局また行方をくらませたままであった。11月28日コミッショナー委員会は永易に対し、永久出場停止(追放)という日本野球界初の処分を下す。一方、西鉄球団は球団社長の国広が11月30日で辞任。後任には青木勇三が12月15日に就任した。中日は田中に対して12月15日、トレード要員にすると通告。19日、中日は田中に対してトレード先がないため自由契約にすると通告した。同日、田中は『週刊ポスト』を名誉棄損罪で東京地検に告訴した。その後他球団から獲得の申し出がなかったため、郷里の福岡市に戻り、引退した。巨人の投手コーチの藤田元司は義兄が経営する会社に代表取締役として参加していたが、義兄がある役員と経営方針を巡って対立したため、1967年1月、義兄と藤田はこの役員に会社を辞めてもらうようにある人物に説得を依頼する。その際、2人は退職金として30万円を渡すように依頼したが、この人物は退職を迫る際に脅迫まがいのことをし、さらに30万円も着服していた。義兄と藤田は警察に被害届を出していたが、1970年2月12日、2人が依頼した人物が暴力団員であることがわかり、翌2月13日の新聞各紙で「藤田が暴力団と関係」と報道された。藤田は2月13日、巨人の春季キャンプ先である宮崎の宿舎にて記者会見を行い「会社を受け継ぐについてどうしても辞めてもらわなければならない人があった。人に頼んで交渉してもらったがー暴力団員とは知らなかった」と弁明した。球団は一軍担当総務の佐伯文雄が藤田から事情聴取し、佐伯は13日に上京してオーナーの正力亨に報告を行った。そして14日、球団は藤田をキャンプから帰京させて自宅謹慎を命じ、さらに佐伯と球団代表の佐々木金之助を譴責とする処分案を発表した。藤田の件は、前年に永易事件が表面化した折であり「ジャイアンツよお前もか」と「プロ野球と暴力団との関係を如実に物語っている」とマスコミから非難を受けることになった。永易、藤田とプロ野球界と暴力団に絡んだ不祥事が相次いだため、プロ野球の黒い霧を糾明しようとする動きが国会議員の中から出てきた。3月に入り、スポーツ好きの超党派の議員で構成されるスポーツ振興国会議員懇談会(川崎秀二会長、会員数約300名)が3日、国会でプロ野球の黒い霧を取り上げる事を決定。同会に所属する社会党議員の中谷鉄也が9日の衆院予算委員会で、プロ野球を舞台にした暴力団による野球賭博を更なる取り締まるよう荒木万寿夫国家公安委員会委員長に迫ったほか、行方不明の永易が暴力団によって軟禁されているのではないかと発言、これに対して高松敬治警察庁刑事局長が「初耳だ。関係者からの申告を待って調査に乗り出したい」と答弁。10日に警視庁は永易の行方の調査を大阪府警、静岡県警に指示した。17日にはスポーツ議連によってプロ野球機構、識者などを招いて「プロ野球健全化公聴会」が開かれ、19日にはコミッショナー委員長の宮沢が衆院法務委員会に参考人として呼ばれるなど、プロ野球の「黒い霧」が社会的注目を集めるようになった。中谷の要請により警視庁は永易の行方を捜したが、18日、大阪にある永易の実家に永易から定期的に連絡があること、また軟禁先と噂された伊東市内を一通り捜索した結果、警視庁は永易軟禁説の可能性は薄いとの判断を示した。しかし、中谷らスポーツ議連はこの報告に納得せず、中谷、川崎、塩谷一夫の3議員の連名で警視庁に捜索願を出すことになった。国会で議員によって軟禁説が取りざたされていた永易は、世間の目を逃れるために恋人と札幌に住んでいた。この頃、田中勉に訴訟を起こされていた『週刊ポスト』は、田中の黒を掴むため永易の行方を捜していた。『週刊ポスト』の協力ライターであり、永易と取材を通じて面識があった元デイリースポーツ記者の大滝譲司が永易の親族や友人などに「永易を探していると伝えてほしい、もし本人に連絡する気が起きたら」と自分の連絡先を知らせていた。そして、永易の妹を通じて永易が大滝に連絡したいと話があり、大滝と再会した永易は、自らの八百長と、西鉄球団から口止め料として合計550万円貰っていたことを大滝に告白した。以後、大滝の手による永易の「告白」がマスコミを通じて流れることになる。3月24日、内外タイムスが、永易が名古屋にいることを「スクープ報道」、そして、毎日新聞が夕刊で永易が札幌で潜伏していたと報じる。毎日新聞は東京社会部記者の堀越章記が札幌に飛び、永易が札幌のアパートに潜伏していた事実を掴んでいた。25日発行の内外タイムスはさらに、永易がそれまで否定していた八百長を行っていたことを認めたと報じる。そして、これ以後の永易の告白は球界に大きな波紋を投げかけることになる。30日発行の内外タイムスの「独占スクープ第3弾」は、永易が西鉄から逃走資金を貰っていたと報じた。スポーツニッポンは、当時航空会社の招待でヨーロッパ視察中でありモスクワに滞在していたオーナーの楠根宗生に国際電話してインタビューしたが、楠根は「そんなことあるはずがない。彼は処分された選手だ」と全面的に否定した。31日には同日発行の『週刊ポスト』が永易の独占インタビューを掲載、4月1日にはフジテレビの番組『テレビナイトショー』において、自分が演じた八百長は西鉄の他の選手から頼まれたこと、そして八百長を演じた選手は自分以外にもいることを示唆した。いずれも大滝の手によるものだった。これらの永易の「告白」に対して、他のマスコミから永易自身が公の場に出て説明するべきだとの声が出た。4月5日、永易はスポーツ議連の3議員による捜索願で行方を捜査していた警視庁捜査四課の捜査員と会い、自らの八百長と楠根オーナーから口止め料を貰っていた事、さらに八百長は自分以外にも選手がいたことなどを供述した。永易の「告白」はなお続き、今度は4月6日発行の内外タイムス「独占スクープ第4弾」では、「親しいチームメイトのY投手から頼まれた」「Y投手に頼んだのはHさんといって、M投手の知人でぼくも知っている人」「Yから頼まれてF選手をとめた」「Y投手がとめたM捕手とM選手はともに30十万ずつわたしたそうです」「HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで百万円を田中勉さんにわたしたのを知っています」と、田中勉は実名で、それ以外はイニシャルで選手名を挙げた。これに対し、共同通信は4月6日に内外タイムスの紙面でイニシャルで掲載された選手名を実名を挙げた記事を配信、これは7日日刊スポーツと報知新聞、8日スポーツニッポンなどの一部のスポーツ紙や、共同通信の配信を受けている東京タイムズや一部の地方紙に掲載された。4月7日の内外タイムスでは、益田昭雄、池永正明へのインタビューを載せ、いずれも八百長を否定した。池永はまた、「球団から『お前らは黙っていろ!われわれ上のものが解決する』という話があったと認めている」と報じた。7日には『週刊ポスト』が永易のインタビューの続きを掲載、8日には『テレビナイトショー』が司会の前田武彦と大滝が永易にインタビューする映像を放映した。その中で、永易は自分が演じた八百長は3試合でそのうち1試合のみが成功で、この試合で自分以外に八百長に関わった選手がいると明言した。永易が捜査当局に八百長を自供した事と、共同通信による実名報道を受けて、7日、西鉄球団はオーナーの楠根と球団社長の青木がそれぞれ記者会見した。楠根と青木は永易の発言は事実無根だと主張した。しかし、記者から告訴などの具体的な手段を立てるべきではないかとの質問に対しては、告訴は考えていないと明言した。8日にはプロ野球実行委員会が開かれ、永易発言の真相糾明のため永易に公の場に現れるよう呼びかけを行ったほか、コミッショナー事務局長の井原宏が永易に直接会って事情を聞くことを決定、また西鉄球団に対して永易発言で俎上に上がった選手への事情聴取を行うよう要請した。また球界の黒い霧の糾明に乗り出しているスポーツ議連が設置している「プロ野球調査委員会」が、警視庁に対して永易とコミッショナー事務局とを引き合わせへの協力を要請した。内外タイムス、『週刊ポスト』、『テレビナイトショー』と特定のメディア媒体を通じて告白を行ってきた永易だが、4月9日に読売新聞が永易を都内で発見してインタビューし、開幕前日の4月10日、大滝が塩谷に「永易が会いたいといっている」と連絡した。塩谷は永易が公の場に現れて事情を説明することを条件に出し、大滝もこれを了承した。永易と会った塩谷は、共同の記者会見を行うこと、コミッショナー委員会の喚問に応じるよう永易を説得。『週刊ポスト』の弁護士の原秀男は、先にコミッショナー委員会に出て実名をだし、記者会見はその後で行い「名前は委員会に聞いてくれ」というほうがいいと助言した。永易は衆議院第二議員会館第一会議室にて、大滝、塩谷、原らとともに午後三時より記者会見を行い、半年ぶりに公に姿を現した。永易はその会見で、記者団から、これまで『週刊ポスト』などでイニシャルで名前を挙がっていた西鉄の6人の選手の実名を挙げるよう迫られた。永易は名前を言うのを渋ったが、塩谷が「男として元同僚をかばう気持ちは分かるが、いずれコミッショナー委員会では言わねばならないのだから、ここで名前を言った方がいい」と言うと、永易は池永正明、与田順欣、益田昭雄、村上公康、船田和英、基満男、田中勉の名前を挙げた。そして新たに佐藤公博(元南海ホークス)へ謝礼と引き換えに先発投手の名前を漏らしてたことを公表した。永易は、自分の八百長についてはチームメイトの与田から誘われたこと、また与田は「フジナワ」という人物と知り合って八百長をしたのがきっかけであると述べた。そして、西鉄球団の球団幹部から約550万円の逃走資金をもらっていたことを改めて述べた。受け渡しの際に「フジナワ」と「オオシロ」の3名で会ったこと、西鉄との書類にサインしたと述べた。記者会見後には東京・銀座のプロ野球コミッショナー委員会事務局へ、その後パリーグ事務局へ赴き、いずれも八百長について証言した。西鉄球団は同日午前に上記6名を呼び事情聴取したが、6名全員が永易の発言を否定、球団は6選手はシロであると発表した。逃走資金についてもそのような事実はないと否定した。パリーグ会長の岡野は、11日に福岡へ飛び西鉄の青木勇三社長や、藤本哲男球団部長などから事情聴取した。その結果永易の主張には裏付けが取れないとして西鉄はシロであると結論付けた。だがマスコミは岡野の調査を「手ぬるい」と非難した。永易の発言で名前の挙がった"フジナワ"とは、神戸で牛乳販売業を営んでいた藤縄洋孝という商人であった。藤縄は15日の深夜に朝日新聞名古屋本社に自ら出向いて記者のインタビューに答え「西鉄のオーナーとはあったこともない」と永易の発言を否定した。朝日新聞は永易へのインタビューを掲載し、永易はその中で「去年12月にオーナーに会い、なにも言うな。一生面倒を見るからと言われた」「西鉄からもらった金は計550万円」「これで一生の保証かと、大城さんと藤縄さんと相談しオーナーと稲尾監督にかけあったがオーナーからお前の問題は片づいた、稲尾さんから新聞に書くなりなんなりしろと軽くあしらわれた」、「こんなに冷たい仕打ちはない」などと答えた。朝日新聞は永易と藤縄を都内で引き合わせて「対決」させたが、両者の言い分は平行線をたどったままだった。しかし、朝日新聞は永易の前夫人とその友人夫妻を取材し、永易が西鉄からの口止め料を大城と相談していたと聞いたこと、離婚の慰謝料50万円が西鉄からの口止め料から充てていたと両者は明言。朝日新聞はまた、西鉄が八百長の噂のある選手を取り調べに立ち会った球団職員から八百長を認めた選手がいた聞いたという元後援会員の「他の選手も八百長をやっていたのは西鉄も知っているはず」という証言を得た。朝日新聞はさらに、大阪の永易の実家にも取材し、永易の家族はオーナーの楠根が1969年の12月に西鉄航空営業部大阪営業所で永易とその父親、兄、そして藤縄と会ったこと、その際口止め料の受け取りは大城を通じて行うことを楠根が主張していたことなどを証言した。永易の母親は西鉄からの口止め料の一部を実家に預けていたと残金を見せ「あの子の言っていることは本当です」と涙ながらに訴えた。一方、東京地方検察庁特別捜査部は田中勉の『週刊ポスト』への告訴に絡んで八百長野球の捜査を行っていった。永易を4月14日から16日まで事情聴取し、永易の家族からも事情聴取を行った。4月22日、オートレースの八百長事件で小型自動車競走法違反の疑いで逮捕されたレーサーが「大井オートレース場での八百長レースで現役のプロ野球選手とナゾの男2名が現場にいた」と自供。その結果、4月23日小型自動車競走法違反の容疑で警視庁捜査四課は田中勉、元大洋ホエールズ投手の高山勲、そして藤縄を逮捕した。藤縄は逮捕される直前、朝日新聞の記者に対して現役のプロ野球選手を買収して八百長を仕組んでいたを認めた。朝日新聞は藤縄の逮捕を報じた4月24日の朝刊でこの藤縄の告白を掲載し大きな反響を呼んだ。コミッショナー委員長の宮沢は24日夕方記者団に対して「けさの朝日新聞に載った藤縄談話は注目に値するものと思う」と語った。藤縄は西鉄選手を買収し10回試みて成功は2回のみの大損で、4,500万円近い借金が出来たと述べる。4月25日に西鉄本社にて44年度下期の決算報告が行われ、西鉄本社社長の楠根が公に現れるとあって黒い霧事件を取材している記者約30名も詰めかけたが、西鉄側は記者会見へは経済記者のみに限定した。各マスコミは出席を許されていた記者に黒い霧に関連した質問をさせようとしたが、楠根は決算報告中に退席し、追いすがる記者を振り切って姿を消した。こうした楠根の姿勢は世論とマスコミの反感をますます買うことになる。そして、4月28日の読売新聞と毎日新聞の各夕刊は楠根宗生オーナーがこれまで否定していた永易への金銭授受を認めたと報道。両紙は楠根にそれぞれ単独インタビューし楠根は「永易から泣きつかれたので、更生資金として渡した」と答えた。29日には東京地検特捜部から出頭要請を受けて上京して取り調べを受けて、永易に対して550万円を渡していたことを認めた。西鉄球団は永易の"告白"を事実無根と主張していたが、オーナーの楠根が前言を翻して永易へ資金を渡していた事を認めたため、永易証言による西鉄選手の八百長疑惑に対しても、黒と見る向きが高まった。5月4日、プロ野球コミッショナー委員会は、東京に遠征中の西鉄の6名選手を東京の日生会館に呼んで、午前10時より5時間近く事情聴取を行った。聴取に対して6選手全員が永易発言の疑惑について否定した。6日、コミッショナー委員会は与田、益田について「はっきり黒と断定できないものの疑惑が濃い相当の理由がある」として野球協約第四〇四条に基づき出場停止処分とする。そして7日、西鉄球団は池永、船田、基、村上の4選手の公式戦出場を5月いっぱい見合わせると発表した。西鉄は、すでに出場停止処分となっている2選手と合わせて主力選手を6名も欠くという非常事態となった。8日には4名を球団事務所に呼び、夕方から深夜に及ぶ長時間の事情聴取を行った。その結果6名は必ずしもシロではないと発表し、西鉄球団がようやく真相究明に乗り出した。オートレースの八百長で警視庁に逮捕された田中勉は、6日の東京地検の取り調べに対して、プロ野球の試合でも八百長を演じていたことを認めた。このため東京地検は『週刊ポスト』の記事は田中への名誉棄損には当たらないとの判断を示した。田中は「世間を騒がせて申し訳ない。今は反省すべき時で告訴どころではない」と、6日に告訴を取り下げる手続きをとった。東京地検は『週刊ポスト』を不起訴処分として捜査を打ち切った。7日には西鉄のエース池永正明に対して藤縄からの依頼で百万円で八百長を依頼していたことを供述。これに対して池永は当初は否定したものの、10日に福岡市内の西鉄室内練習場にて報道陣に対して田中から百万円を貰った事を認めた。12日、与田は日刊スポーツの記者の取材に対し、「僕と益田は、やっていないといったところでおかしいでしょう」と自らの八百長を認めた。さらに基と村上にも八百長を持ち掛けたことも認めたうえで二人に断られたと明かし「基、村上はシロだといえる」「この二人は八百長試合はやっていないだろう」と明言した。13日には、船田、基、村上が球団社長の青木に真相はこうだという告白状を提出した。船田は永易から、基と村上は与田から八百長の勧誘を受けた。その際に八百長料を渡されたが「金を渡しそびれた」(船田)、「5日後に返した」(基)「その場で返した」(村上)とさまざまだったが、三者ともに「八百長は断った」と主張した。そして同日、永易への逃走資金を認めたことで非難を浴びていたオーナーの楠根は福岡市内の西鉄本社にて午後1時より記者会見を行い、西鉄本社社長、球団オーナー、一切の公職から辞職することを表明した。黒い霧の選手は他球団にも波及した。田中勉に続いて、中日ドラゴンズのエース小川健太郎にもオートレースの八百長疑惑が浮上した。5月2日、読売新聞の夕刊が小川健太郎、葛城隆雄が八百長オートレースに絡んでいたと実名で報道したため、中日球団は小川を2日夕方謹慎を命じたと発表した。5月6日午前に小川は警視庁に出頭し、小型自動車競走法違反の疑いで逮捕された。小川の逮捕を受けて、セリーグ会長の鈴木龍二は小川を無期限の出場停止処分とした。現役選手の逮捕にまで発展した球界の黒い霧に対して、世間の風当たりは厳しくなっていった。5月7日の朝日新聞夕刊は、藤縄が1969年シーズン中にロッテ球団に対して「姫路のマスダ」と名乗り、監督の濃人渉と球団代表の武田にアプローチし「私の言う通りにすればオリオンズは優勝できる」と八百長を仕組もうとしていたと報道。5月9日の朝日新聞は、東映フライヤーズの2選手が敗退行為の勧誘を受けていたと報道。朝日新聞の報道を受けて、田中調が「新聞に載っていた2人のうちひとりは自分のことだと思う」と名乗った。東映球団は9日の後楽園球場での試合後に森安と田中に対して事情聴取し、その後田中、森安、球団代表の田沢八十彦の3人が記者会見した。会見で、田中と森安は1969年9月に西鉄戦のため福岡に来た際、試合後に永易から誘われて3人に飲みに出かけ、その途中で永易が自分の知り合いがいると言って3人で藤縄の住んでいたアパートに立ち寄り、その際藤縄が2人の前に60万円を見せ、八百長を依頼があったことを認めた。しかし、森安は八百長を誘われたのは田中だけという口ぶりだったが、田中は2人に対して八百長の依頼があったと思ったと言い出し、主張がちぐはぐであった。翌日、オーナーの大川博が都内の自宅に田中、森安の2人を呼んで事情聴取、その後大川、森安、田中の3人が記者会見。大川は、2人とも八百長の依頼があったことを認めるもこれを拒否し金銭も受け取っていないと判断したと発表したが、2人は依頼があったその後に永易と藤縄と飲み歩いていたことを認めたため、2人の出場を見合わせると発表した。14日には毎日新聞とスポーツニッポンが近鉄バファローズ球団職員の山崎晃が1967年シーズンに暴力団に八百長を強要するよう脅されたため監督や選手に八百長を働きかけ、近鉄球団が球団ぐるみ八百長を行っていたと報道した。19日には、阪神タイガース内野手の葛城隆雄がオートレースの八百長容疑で逮捕された。これを受けてセ・リーグは葛城を無期限出場停止とし、さらに6月18日開催のコミッショナー委員会で3か月の期限付失格選手に指名された(葛城は処分解除後に自由契約選手となり、そのまま現役を引退)。5月16日、パ・リーグの理事会が開かれ、6時間に渡る会議では主に西鉄6選手の処分を討議した。パ・リーグ会長の岡野は、この会議での各理事の議論を参考に6選手への裁定案をまとめてコミッショナーへ提出。20日にコミッショナー委員会が開かれて、3委員が処分案を討議した。25日コミッショナー委員会の3委員が後楽園サロンにて記者会見し、6選手への処分を発表した。池永、与田、益田の3人の投手は永久追放処分。理由は与田と益田については敗退行為を認定。池永は敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠ったことを八百長を承諾したと見なしこれをプロ野球協約第355条違反(当時)として処分を下した。村上と船田は、八百長を依頼されたがこれを否定したという本人の主張が認められた形となったが、八百長を依頼された際に渡された報酬の返却を怠った事で11月30日まで試合を含む完全野球活動禁止処分。基は八百長を依頼されるも否定、報酬も渡されるもこれを返却したことは認められた。また、当時野球評論家として活動している中西太は、西鉄球団の黒い霧に関して元監督としての道義的責任をとるという理由で、当面の間、野球評論の活動を停止すると発表した。オートレースの八百長で逮捕された小川は5月27日に東京地検に起訴された。中日球団はこの日小川との契約の解除をセリーグに申請したが、セリーグ会長の鈴木龍二はこれを保留した。この段階でセリーグが独自に調査したところ、小川がプロ野球の試合でも八百長を演じていたとの疑惑を掴んだ。鈴木は6月2日にコミッショナー委員会に対して永久失格選手として処分してほしいとの要望書をコミッショナー委員会に提出した。鈴木は1日に記者会見し、記者から「小川が否定しても、それを突き返すだけの資料があるということか」との問いに「そう解釈してもらっていい」と答えている。3日、コミッショナー委員会が開かれ、小川を野球協約第120条の「統一契約書にある条項」に違反したとし、同項では違反した場合期限付きまたは永久の失格選手に指名されるという項目のうち後者を適用して、永久失格処分とする裁決を発表した。一方、東映の田中、森安の疑惑に対して、パリーグ会長の岡野は5月14日に東映から調査の報告書を受け取った。これを元に岡野は福岡、大阪で調査を行った。その結果東映の報告には不備があると指摘し、2日、東映球団に対して2名に対して再調査するよう命じた。3日、東映は2投手から再び事情聴取をしたところ、森安は9月27日の永易と藤縄から八百長の依頼があった後の行動について、「永易らとクラブで遊んだあと一人で宿舎に帰った」との主張していたのに「芸者と遊んだ後2人で帰った」と食い違う発言をした。そのため球団は森安を無期限の出場停止にした。兵庫県警は野球賭博の捜査のため7月から、コミッショナー委員会から処分を受けた西鉄の選手や、永易、小川健太郎らから事情聴取していた。森安も参考人として7月16日から事情聴取した。16日の取り調べに対しては、八百長を否定したが、17日、取り調べに対して、永易から八百長の依頼を承諾し、現金50万円を受け取っていたと自供した。すでに八百長の依頼があって現金を預かったままの池永を永久追放処分した先例があることから、森安の永久追放処分も決定的となった。オーナーの大川の命で27日に森安は記者会見を行ったが、会見で「金はもらったが八百長はやっていない」「永易から電話で八百長の依頼があったが朝だったので眠くて覚えていなかった」などと語り、マスコミは「肝心のことはなにがなにやらさっぱり要領を得ず」などと評した。7月30日、コミッショナー委員会から森安への裁決が下され、永久追放処分が下された。森安と球団代表の田沢が京橋の球団事務所で記者会見し、「たかが50万円でバカなことをしたと思うか」と問われ「そりゃあそうでしょうね」と語り、「ファンのひとりひとりに土下座したい気持ちでいっぱいです」と謝罪した。コミッショナー委員長の宮沢は記者会見で「球界の黒い霧についてひとまずこれで調べが済んだが、これで終わりかと言われたら、私はそう言い切る自信はない」といった。同時期に、次の不祥事とその処分がある。主力選手が永久追放処分を受けた中日と西鉄は戦力が低下、特に3名の永久追放処分者と2名のシーズン出場停止処分者を受けた西鉄は戦力が激減した。1970年から72年まで3年連続最下位となった上、球団経営に行き詰まり、1972年オフに福岡野球へ身売りされることにつながった。1969年に西鉄に入団した東尾修は、入団1年目にウエスタン・リーグで負け続け自信を失い、武末悉昌コーチに野手転向を申し出た。しかし、この事件が発生したことで野手転向の話が立ち消えになるどころか、永久追放で投手が不足したことが原因となり、黒い霧事件に関与していなかった東尾は1軍でフル回転せざるを得ない状況になってしまった。投手としての実力が十分に伴わないうちから登板を重ねたことにより、200勝達成よりも200敗達成のほうが早くなり、200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた状況であった。最終的には通算251勝247敗で現役引退した。この事件の余波で甚大な被害を被った人物にオートレース選手の広瀬登喜夫がいる。広瀬は当時オート界随一のスター選手として全盛期であった1970年10月に逮捕されたことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上に渡って裁判闘争に費やす羽目になった。冤罪であったとして控訴審で無罪判決を得てこれが確定し、オートレース選手としてようやく復帰がかなったのは1975年10月で、逮捕から実に丸々5年を費やした。また、野球界では高山勲が大洋を退団処分された後に鬱病を患い、1978年に睡眠薬自殺した。1980年代に入ると、青田昇が野球賭博に関与していたと報道されている。余談だが、西鉄の後身にあたる埼玉西武ライオンズの主催試合でのイベント『ライオンズ・クラシック』の2010年の第1章(対オリックス・バファローズ戦)において、この事件によるライオンズやパ・リーグの状況を趣旨とした「パ・リーグ苦難の時代〜ライオンズ消滅の危機〜」というサブタイトルが付与されている。2015年秋、読売ジャイアンツの複数の選手が野球賭博に関与していたことが発覚して処分を受けたことに対し、翌2016年1月12日の日本野球機構の新人研修会で、事件当時に近鉄の主力選手として活躍していた鈴木啓示が球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為を持ちかけられたが断っていたことを明らかにした。池永は永久追放処分を受けてから、福岡市博多区の繁華街・東中洲で「ドーベル」というバーを経営していた。その一方で西鉄ライオンズの関係者(稲尾和久、豊田泰光、尾崎将司など)や池永の親族、池永の出身校である下関市立下関商業高等学校のOBなどは処分の決定直後から処分解除を求めて街頭での署名運動を展開。前述の通り西鉄ライオンズが福岡野球へ球団譲渡した1972年末には中村長芳(当時の福岡野球社長、太平洋クラブライオンズオーナー)や松園尚巳(当時のヤクルトアトムズオーナー、長崎県出身)がオーナー会議で池永への処分解除を提案したが、佐伯勇(当時の近鉄バファローズオーナー)や正力亨(当時の読売ジャイアンツオーナー)が賛成した一方、森薫(当時の阪急ブレーブスオーナー)や川勝傳(当時の南海ホークスオーナー)が強硬に反対し、意見の調整が付かないまま雲散霧消で終わった。1996年には、有志で結成された「復権実行委員会」が下関大丸での『豪腕ふるさとへ帰る 池永正明展』開催期間中(1か月間)に18万7,787人の署名を集めた。1997年6月3日には、池永への処分解除を求める嘆願書と上記の署名簿を日本野球機構および当時コミッショナーだった吉国一郎宛てに提出。しかし、1998年に吉国の後任で3月にコミッショナーに就いたばかりの川島廣守が6月24日付で嘆願を却下した。これに対し、「復権実行委員会」のメンバーや復権運動の趣旨に賛同した有識者や弁護士などは「豪腕・池永正明氏の復権と名誉回復を心から願う人々の会(通称『池永復権会』)」を新たに設立。嘆願書の提出後から小説の執筆を前提に池永との交流を始めた笹倉明(直木賞作家)が代表に就任するとともに、赤瀬川隼、藤本義一、難波利三、阿部牧郎、伊集院静、若一光司、赤江瀑、古川薫、軒上泊(いずれも作家)が相談役を引き受けた。さらに、池永との付き合いが長い小野ヤスシや中野浩一をはじめ、ライオンズOB以外のスポーツ関係者や芸能人からも多数の賛同会員が現れた。「池永復権会」では当初、「池永の永久追放は『疑わしきは罰する』という姿勢の下に為された『灰色有罪』の処分でしかなく、コミッショナーの裁定でこの処分を続けることは人権問題に当たる」という認識の下に、講演活動を展開しながら日本弁護士連合会の人権委員会への提訴を計画していた。しかし、当の池永が復帰運動に消極的な姿勢を示し始めたため、途中からは弁護士による月1回ペースの「勉強会」に衣替えした。その一方で、途中から「池永復権会」の相談役に加わった楢崎欣弥(当時は民主党_衆議院議員)は超党派の国会議員による懇談会の設立に尽力している。復権運動の風向きが変わったのは、プロ野球マスターズリーグが2001年に池永の選手登録を認めてからである。池永は同年、稲尾が監督を務めていた福岡ドンタクズに入団。12月25日の福岡ドームでの対名古屋80D'sers戦に先発で初登板を果たすと、3回を無安打・無失点に抑えて交代した。ちなみに試合後のインタビューでは、「(永久追放処分について)もう許していただきたい」という旨のコメントを残している。「池永復権会」は2002年、川島による前述の処分嘆願却下に対する反論書を添えて、日本野球機構に参加する全12球団のオーナーおよびコミッショナー事務局へ嘆願書を提出。請願自体は事務局から却下されたものの、2005年3月1日のコミッショナー実行委員会および同年3月16日のオーナー会議で、不正行為とその処分について定めたプロ野球協約第177条の改正が提案・承認。処分対象者からの申請による球界復帰への道が開かれた。上記の協約改正を受けて、池永は球界への復帰を申請。2005年4月25日に復権を果たした。2007年に「ドーベル」を閉店すると、2011年まで山口県の社会人野球クラブチーム「山口きららマウンドG」(現:山口防府ベースボールクラブ)の監督を歴任。2008年からプロ野球マスターズリーグの活動休止(2010年)までは福岡ドンタクズの監督も務めていた。
出典:wikipedia
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