初島(はつしま)は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。島内から縄文時代の遺跡が発見されており、古くから人の居住があったと考えられている。鎌倉時代にも源実朝が「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」と詠んでおり(金槐和歌集)、風光明媚で知られていたことが伺える。明らかな記録では南北朝時代の観応2年(1351年)に18戸の家があった。古くから島の産業は漁業と農業で、現存する記録では天明2年(1782年)に江戸の魚市場に魚を売った記録帳がある。江戸時代から島内の戸数は41戸前後で天保元年(1830年)に41戸との記録があり、この戸数が現在まで続いている。島内の耕作地や生活用水が限られることから次男以下は島を出て、男子がいない場合は婿を取り、41戸と一定の人口を維持するという慣習があった。島内に由来がある家系ではこの慣習が受け継がれてきたが、近年では長男以外のものが後継ぎになる例もある。島の生活は共同体であり、耕作地や漁獲は等分に分けられていたという(下記の与謝野晶子の紀行文参照)。江戸時代中期以降は熱海が温泉場として発展したが、初島は長らく沖の小島として旧来の姿を守っていたと考えられている。幕末の混乱期には一時期伊庭八郎が匿われたとの資料がある。明治に入り1881年(明治14年)に熱海までの県道が通じ、温泉場として発展するとともに、初島にも徐々に開明の波が及び1886年(明治19年)10月には熱海尋常小学校初島分教場が開校している。1913年(大正2年)1月24日に幼少の昭和天皇が校外学習で海軍の水雷艇で来島し植物採集をしている。1921年(大正10年)1月には与謝野晶子が島を訪れ、「初島紀行」という作品を書いた。その文中には(以下引用)とある。未だ初島は「観光地」とは認識されておらず、古くからの集落によそ者が訪れるという趣であったことが伺える。また、島民の生活については以下のように記している。1923年(大正12年)の関東大震災では島が隆起し、島内の家屋が損害を受けたとの記録がある。1925年(大正14年)には国鉄が熱海まで開通し、さらに1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通すると熱海は一大観光地となり、初島への遊覧も増加していった。戦後は1964年(昭和39年)には東海道新幹線の開通とともに初島バケーションランドが開設され、漁業・農業・観光の島となった。その後、バブル景気のリゾート開発の失敗などがあったが、現在も首都圏から日帰りができる距離にありながら素朴な雰囲気を残した離島として貴重な存在となっている。富士急行(富士急マリンリゾート)が熱海港と伊東港からの定期航路を開設している。
出典:wikipedia
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