ピンク映画(ピンクえいが)は、日本のポルノ映画のうち、大手以外の映画製作会社によって製作・配給された作品のこと。現在の製作・配給会社としては新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画、Okura Pictureより)、新日本映像(エクセス・フィルム)がある。この他に製作のみを行っている国映があり、配給は新東宝映画に委託されていたが、近年の作品は他社が配給している。ピンク映画の傍流として「ゲイ向けピンク映画」と呼ばれる同性愛者向けのポルノ映画があるが、こちらは同項を参照のこと。"ポルノ映画"という名前を日本で初めて使って映画を作ったのは東映である。東映任侠映画の仕掛け人で当時の東映取締役・岡田茂(のち、同社社長)が、1960年代後半から『大奥物語』(1967年)や『徳川女系図』(1968年)といったエロチシズム路線の映画を仕掛けていきこのうち、やはり岡田の企画で始めた"温泉芸者シリーズ"第4作『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、1971年7月3日公開)に於いてプロデューサーの天尾完次が海外の雑誌のグラビアから"ポルノグラフィ"という言葉を見つけて同作で主演デビューする当時16歳の池玲子を売り出すため、あれこれ思案し「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた。今日SEX映像の代名詞として日本で定着する"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語である。岡田茂がエロ映画に参入した動機は、当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めて、ソロバンをはじいてみると松竹の年間配入よりも総体で上回ることが分かったからといわれている。日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り、東映の『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及した。網走番外地シリーズでNO.1ヒットを出していた石井輝男ら一般映画でも一流の監督達が演出し、一般映画でも主演スターである梅宮辰夫、丹波哲郎、吉田輝雄、伊吹吾郎らが登場する。そこからポルノの女王と言われる池玲子や杉本美樹らがスターとなっていき、フランスポルノの女王サンドラ・ジュリアンやクリスチーナ・リンドバーグらがゲスト出演した。豪華な時代劇のセットや衣装を使い、後の日活のポルノとは桁違いの大金を投じていた。当時の日本映画は2本立てが基本であるため、ヤクザ映画と併映されていた。東映ポルノは、1960年代後半から1970年代終わりにかけて作られた。日活は60年代も後半に入ると石原裕次郎、小林旭の肥満や作品のマンネリのため客足が遠のき、後発のスターも観客動員力がなく経営破綻に陥った。成人映画なら一般映画より一桁少ない制作費でも客入りが見込めると1971年にポルノ専門の会社に転進。日活ロマンポルノを名乗った。ポルノを嫌った日活の既存のスターはテレビドラマや他社の映画の仕事を求めて辞めていった。一方、既に名を成していた映画監督らについては、この機に日活を離れた者が多いが、それ以外のスタッフについては、日活に残ってそのままロマンポルノの制作に従事した者も少なくない。
人材・作風などからピンク映画をスケールアップしたものが多い。ロマンポルノは予算が零細企業が作るピンク映画に比べれば潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かったことからピンク映画とは様々な面でカラーが異なっていた。ピンク映画業界のスターだった女優や監督など優秀な人材が日活にヘッドハンティングされることもあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1970年代末から三本立てのうち1本をピンク映画を買い取って配給する体制となり、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。なお、買い取り作品も現在は日活が著作権を所有し、ビデオなども日活マークをつけて発売されているため、実際に日活映画なのか買い取り作品なのか判別が難しくなっている作品もある。基本的に買い取り作品は日活撮影所も使われず、技術スタッフもすべて社外の人間だが、通常のピンク映画よりは若干多めの予算で外注されるケースが多かった。日本では「ピンク」という色名が用いられているが、アメリカでの類似映画は、フィルムを青く着色していたことから「ブルーフィルム」と呼ばれる。日本で「ブルーフィルム」とは、温泉街などでの上映会に提供されていた8ミリまたは16ミリフィルムによる短編ピンク映画(その多数は無修正映画)を指すことが多い。1950-60年代、テレビの普及で職を奪われたニュース映画や教育映画関係者達が糊口を凌ぐためにお色気をテーマにした短編・中篇映画を制作し、これを同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給されていた。当時は文字通り「お色気」に徹した作品であり、現在の過激な性描写にはほど遠い代物だった。また、作品としての質も決して高くなかった。しかし、1961年の新東宝倒産が一つの転機となる。新東宝の経営を追われた大蔵貢が大蔵映画を設立。1962年に協立映画製作、大蔵映画配給の『肉体の市場』が公開。「成人指定」「独立プロ製作」「劇映画」という3つの要素を満たした最初の作品として、この『肉体の市場』がピンク映画第一号とされている。この頃、ピンク映画という言葉は無く、「お色気映画」などとも呼ばれていたというが、夕刊紙「内外タイムス」文化芸能部の記者で、後に映画評論家の村井實(村井実)が1963年に関孝司監督、沼尻麻奈美主演の映画である「情欲の洞窟」を取材した際、「おピンク映画」とこれらの作品群を呼ぶ造語を作り、その後「お」が外れてピンク映画という言葉が誕生したと言われる。また、新東宝関西支店の有志が新東宝興業(現在の新東宝映画)を設立し、大蔵映画と新東宝興業のピンク映画界の二大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した若松孝二などの監督やスタッフが、次々とピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画と言うよりは問題作と言われる作品を発表した。その一方で業界の淘汰・再編も進み、1960年代中盤には新東宝・大蔵などは全国各地の成人館を一般映画同様、チェーン化していった。1970年には日活ロマンポルノの一定の成功もあって、東映セントラルフィルム、東活(事実上の松竹系)、ミリオンフィルム(後のジョイパックフィルム、現在のヒューマックスシネマ)といったメジャー系のピンク映画製作会社も出現した。1980年代前半はピンク映画の最盛期であり、これら制作会社が多数発表する一方で、ゲイ・ポルノなども制作が開始される。しかし、1980年代後半はアダルトビデオに市場を奪われ衰退、さらにピンク映画に対する映画業界による自主規制などからメジャー系制作会社は次々に撤退。1988年のロマンポルノの撤退も含めて、1990年代には市場が大幅に縮小した。21世紀に入り、日本の映画産業もデジタル化が進む中、フィルムによる撮影とアフレコによる録音に拘ったピンク映画も、唯一の頼み綱の富士フイルムが映画用のフィルムの生産中止を受けたことにより、現存するピンク映画製作会社は全てデジタルに移行している。ピンク映画は文字通り、性描写を第一義とする映画である。しかし、長らく性描写に対する規制が強かったこと、監督やスタッフに映画業界関係者が少なからず存在すること、大学や映画専門学校出身の作家(監督、脚本家)やスタッフ、俳優がそもそも映画業界志望であって一般映画への憧憬が強かったことなどから性描写に力点を置きつつも、一般映画としての質を望むことも多かった。このため、欧米のポルノ映画ではあまり省みられない映画としての評価と、性描写や女優の美貌などポルノとしてのクオリティが共存する日本独特の物となった。ピンク映画は低予算、早撮りを特徴としており、一般的な作品の場合300万円程度の予算で撮影期間は3日ほど。従って、多くの場合には二晩徹夜で撮影をし続ける。かつては専用スタジオを用いた撮影も一部で行われていたが、一般的にはオールロケが主流である。限られた予算の補助のために、ロケとして用いられたホテルや飲食店のクレジットを映画の内部に表示するなど、苦心の策も用いられたという。また、この「300万円・3日」という数字は、1960年代から物価が大幅に高騰した21世紀にまで変わっておらず、特にフィルム使用時代末期の現場は窮乏をきわめた。逆に、初期の現場には(制作会社のピンハネにもよるが)余裕があるケースも存在し、60年代末に業界入りした浜野佐知は総勢30人近いロケなども体験したことがあるという。ピンク映画の作風は作家も影響するが、それ以上に影響が強いのが会社側の要求である。一般的に作家側は芸術的・映画的な作風を望むのに対し、会社側は性描写などポルノとしてのクオリティを望むことが多い。このぶつかり合いの中で作品が生まれると言ってよい。低予算・短期間で、作家性の強い新人を多く起用することからピンク映画は一種のインディペンデントな作品に思われることもあるが、ピンク映画そのものはむしろかつてのプログラムピクチャーの方に性格は近く、このような制限の中で作家側が独自のカラーを出すことが重要となる。
この「縛り」は会社によってまちまちであり、厳しく条件を要求しアダルトビデオに追随するような作品を求める会社もあれば、作家側に裁量を多く与えている鷹揚な会社もある。作家主義が出やすいのは当然後者であり、ミニシアターや映画祭において上映されて「映画」として評価されるのはこのような作品である。
その一方で会社・ピンク映画に特化した観客に好評なのは前者において制作されたポルノとしての性格が強い作品という場合もあり、時として(ピンク映画に興味を持つ)一般映画ファンとピンク映画ファンにおいて評価の違いを生み出すことがしばしばある。しかし、このような低予算・早撮りという制作形態はかつてのアメリカB級映画と共通しており、事実大手制作会社が一部の大作を除き自社制作から撤退し、社員監督を雇わなくなってからはアメリカのB級映画がそうであったように、ピンク映画が映画監督の養成機関であると同時に登竜門として重要な役割を果たしていた。ピンク映画の出身には若松孝二のような「大家」から、浜野佐知のような「作家主義」の監督までおり、日本映画においてピンク映画の果たした役割の重要性が伺える。ポルノとしてのライバルは相変わらずアダルトビデオやアダルトコンテンツなどであり、特に若い観客層を奪い続けている。ただ、その一方で映画作品として質の高さが再評価されることにより、作家性の高いピンク映画がロマンポルノと共にDVDなどソフトとして復活したりしており、意外に底堅い一面もある。また、アダルトビデオから人気女優が進出してくるケースも(人材不足も手伝って)90年代以降では盛んになり、そうした作品で優れたものはアダルトビデオファンをピンク映画に取り込むことも多くなっている。現在では、Vシネマに代表されるビデオ作品が新人養成と監督への登竜門の役割を担いつつある。客層としては自宅の個室でアダルトビデオなどのポルノ作品を鑑賞する環境を持つことの出来ない家族持ちの中高年者、出稼ぎ労働者、老人などが主で、過去において常連だった学生などはほとんど見られない。特に冬季に暖気を求めてやってくる客層は開館から閉館時まで居座ることがある。企業のスケジュール管理が緩やかだった時代には、営業マンやセールスマンが時間調整のために来る事も多かったという。しかし、近年、上映館の相次ぐ廃館やシネマコンプレックスへの転身により上映と制作の機会が激減している。ピンク映画館は個人経営の場合が多く、観客減と経営者の高齢化(後継者問題)、施設の老朽化(耐震基準を満たせず、建て替えも耐震工事も経済的に困難である等)などで閉館する場合が多い。比較的規模の大きいピンク映画館運営会社でも、すでにピンク映画に集客力は無いと判断し、閉館や一般映画館への転換を図っているケースがほとんどである。その一方で、製作側のデジタル化に連動して、フィルム上映からDVD上映に切り替えて上映を続けている成人映画館も存在する。大きくわけて、製作会社と配給会社、その両方を行う会社に分類される。映画会社・興行会社系と映画監督の個人企業に近いものに分けられる。代表的なものにとどめてある。
出典:wikipedia
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