家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史家(日本思想史)、東京教育大学名誉教授。文学博士(東京大学)。国民精神文化研究所の機関誌『国民精神文化』第九巻第二号によると、1月11日から3月20日までの課程修了者29人の1人。クラスの科目は、「皇国の道」(紀平正美)、「皇国哲理」(佐藤通次)、「国体と政治」(大串兎代夫)、「大東亜教育論」(伏見猛弥)など。なお、文部省発令事項の東京教育大学が作成した正規の年譜からは削除している。国民精神文化研究所の歴史部門責任者の東京高師の長老松本彦次郎に知られ、東京高師へ栄転。東京教育大学では文学部の人事権の「民主化」と教授会の創設に尽力した。当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛・美濃部達吉・津田左右吉・田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。、「朝鮮戦争」(アメリカの侵略による)と記す。家永の活動は表現の自由を求める運動として海外において評価され、2001年には、日本の国会議員・大学教授83名のほか、中国、韓国、アメリカ、カナダ、EUの14名の閣僚・国会議員、ノーム・チョムスキーやハーバート・ビックス、ブルース・カミングス、ジョン・ダワー、イマニュエル・ウォーラステイン、鄭在貞等144名の学者によって、ノーベル平和賞候補者に推薦された。家永の蔵書の大部分(約12,000点)は遺族の希望に基づき、中国天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された。また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市立自由民権資料館に収蔵されており、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。家永は当初から反権力的志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っている。また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった皇太子明仁に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていた。家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』(史学雑誌第56巻第12号1-19頁1947年12月、「日本思想史の諸問題」P119-146斎藤書店1948)という論文を発表しているが、この中で明治天皇と教育勅語を高く評価している。また、『新日本史』(1947冨山房)にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる。家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。自著『戦争責任』で、日本の戦争責任を鋭く衝いている。それ以外に、アメリカとソ連の戦争責任にも触れているが中国に関しては以下のように記している。そしてこれに続けて通州事件も最終的には日本軍の責任であり、中国については全体的に日本の侵略の被害者として位置づけるのが相当であり、日本に対する戦争責任を問う余地は皆無に近いとすべきであると結論付けている。平川祐弘は家永を戦後という時代の御用学者として「日本の悪い面をこれでもかこれでもかと列挙した挙句、中国人民解放軍の良い面をこれでもかこれでもかと」いう歴史書を書いた人間だとし、歴史に対する感性がないから吉田清治が病的虚言症だということも見抜けなかったと批判している。稲垣武は、1993年に検定申請した教科書『日本史B』において、朝鮮戦争に関する記述に「1950年(昭和25年)朝鮮民主主義人民共和国軍が統一を目指して南進し」とし、共産主義側の侵略を糊塗する「南進」という表現を用いていることを批判している。秦郁彦は、家永は悪玉の悪行は見つけしだいに書くが、善玉の悪行には目をつぶるくせがある(この場合の悪玉は日本政府、日本軍、アメリカ、南ベトナム、資本主義であり、善玉は中国、ソ連、北ベトナム、社会主義)として、具体例として、家永教科書の先生用の『指導資料』には、「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は解放され(中略)前後して、カンボジア、ラオスも解放され(中略)続いては南北ベトナムは統一され」と記しているが、中越戦争もボートピープルも知らん顔で、教科書の方ではさすがにベトナムのカンボジア侵攻を「ベトナムとカンボジアとの関係をめぐり新しいインドシナでの紛争が発生したことは(中略)微妙な問題を生み出し」と記しているが、文部省から「微妙」ではなく「深刻」ではないかと注意され「複雑」に落ち着いたことを家永は著書で「ベトナムのみを一方的に避難する現政府のきわめて露骨な政治的意図が丸出し」と記している事を挙げている。また、保阪正康も、「戦争は悪である」という前提は、本来歴史的事実を検証した上で確認すべき教訓であるが、教訓のみを提示し、それに合わせて歴史的事実を確認していくと検証能力が著しく殺がれることになる。そして口当たりのいい要領のいい人物が正義の士として受け止められるようになる、その典型例が家永であると指摘している。室谷克実は家永を以下のように評している。高山正之は家永を以下のように評している(引用の際に、原文の改行を省略している)。長尾龍一は、故家永三郎先生のように尽きぬ情熱をもって延々と旧日本を糾弾し続けるのは薬の続けすぎという印象を持たぬ訳でもないと評している。豊田有恒は1994年初版発行の自著で、韓国国内においてもっとも人気があり、良心的とみなされている歴史学者が家永であることを紹介している。憎むべき倭奴の検閲によって、迫害されているため、という理由が挙げられている。実際に、韓国の中央日報では家永を「侵略の歴史を美化する国家権力に対抗した日本の良心」と紹介している。は、同年代の井上清・遠山茂樹・丸山眞男・家永を評し、井上と遠山をマルキスト、丸山と家永はマルキストではないが影響はあったと規定している。林房雄から山田宗睦が1965年に刊行した『危険な思想家』に「熱情をかたむけたこの告発に声援を送る」という「応援団長を買って出ている」推薦文を寄せたことを批判されており、竹内洋によると吉本隆明から山田や家永らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている。改訂版では、渡嘉敷島の箇所のみ修正されたが、訴訟で原告から批判された。この裁判は原告の全面敗訴で決着しており、現在も本書は、この記述のまま出版が続けられている。秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…とその方々はおっしゃるのですが…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが、今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した。
1977年12月、佐伯真光の立会いの元で秦は家永と交渉した。秦は表現の修正には応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分の全面削除、2.再版に陳謝の意味で断り書きを入れる、3.初版についての措置を別に要求、4.応じなければ名誉毀損で告訴するとした。秦は『変節』の一例をあげた。
家永は「皇室への見方が徐々に変わったが、知識面で戦前の後遺症があり、当時は知的水準が低かった。節操が変わったのではない。」と反論した。会談は物別れに終わり、結局本書は絶版となり、1978年元日の読売・産経で報道された。秦によると、この際に家永が、自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙ってはいないだろう、と述べた。
佐伯は読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献をゆがめて引用」と反論の投書をのせた。
その後朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿は掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判を続けた。
家永はマスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後に早変わりしておらず、軍部に迎合も戦争礼賛もしていない」と著した。
この『変節論争』は、秦の批判は「昭和史を縦走する」(1984)と「現代史の争点」(1998)にまとめられ、家永の反論は「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)にまとめられた。
本書は問題の箇所を改訂せずに1986年に早川書房より文庫化された。巻末の解説に金原左門は、秦に適切さが欠けており、家永は変節組の代表ではないと著した。
秦は1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁で証言したとき、天皇観の極端な振幅を示した「新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代の青少年を教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。
秦は『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)を「歴史研究者の立場から言って、いわゆる学術研究書とは言いにくいと考えている」と証言し、その理由として、引用文献の不適切さ、感情過多の記述を挙げている。例として、非公開で審理され、誰が発行したか不明なハバロフスク軍事裁判の供述書が主体で、『文藝春秋』や『日本』といった雑誌の変名記事、関係のない成智英雄「平沢貞通は真犯人ではない」という論文の引用、あとがきに「日本有志の協力による米航空母艦乗組員四名脱走の快ニュースに接した日/家永三郎しるす」「沖縄県を平和の回復とともにアメリカに売り渡したのは、何という残酷な行為であったろう」という記述、しかも英語版ではそれを削除していることを挙げている。その他著書に、池田・ロバートソン会談における、日教組系のキャンペーンに乗った意図的な誤引用(「軍国主義意識を培養する」)を提示している。
1990年になり、家永は「私と天皇制・天皇」を書き留めたが、内容は死後に初めて公表された。
鹿野政直は、この解説で、「戦前期に成長した一人の知識人にとって、「天皇制イデオロギーの呪縛」からみずからを解放してゆくことが、いかに困難であったかが示されるとともに、幾重の段階をへて(中略)昭和天皇への批判に至った経過」が記されていると述べている。秦郁彦は、平泉澄の自伝『悲劇縦走』によると、1934年に東条英機が来訪して平泉史観で国史教育をやりたい、ついては門下の人を教官に迎えたい、と懇請した。以後陸海軍の国史教官は平泉門下が独占するようになるが、家永が卒業前後に陸軍士官学校教官を志望、教授の公募に応じたが、成績は良かったが身体検査で落とされたことを『一歴史学者の歩み』は触れていないことを問題視している。これに関して家永は、自伝で「(平泉澄)先生の極端な日本主義には到底ついて行くことができなかった」「正気の沙汰と思われないような学風」と評していたが、内海秀夫は、家永が陸士を受験、成績は良かったが、健康上の理由で落とされたと証言している。家永は1977年に発表したエッセーでは、「実にいい就職口だ」と陸士を受験したが、はねられたと明かして、1988年9月、第三次訴訟で、「先生の恩師でもある平泉先生も、この陸士にはよく講義に行かれておりましたでしょうか。」「平泉先生の直門の内海先生とか西内先生とかいう方がいらしたかどうかも御存知ないですか。」「平泉先生が教授になっていないと思って受験したと言うんですか。」「どういう授業をするかということはおのずから承知の上で、教授の試験を受けたんでしょう。」と国側弁護士に問われ、「それは存じません。」「知りません。」「いい就職口だと思って受験したというだけです。」と答えている。国史学科後輩の時野谷滋は、学生数が20数人、皇国史観の重鎮で知られた主任教授の平泉澄教授が陸士の国体教育に絶大な影響力を持ち、弟子を次々に送り込んでいた実情を知らないはずがない、と述べている。第三次家永訴訟で国側証人の秦郁彦は、1983年の教科書検定の時点では731部隊に関しては信用に堪え得る学術研究論文や著書が発表されていないと、同部隊に関する記述の全面削除を検定合格の条件とした文部省を支持した。しかるに最高裁大野判決では、検定当時すでに731部隊に関して多数の文献・資料が公刊され、同部隊の存在等を否定する学説はみあたらず、文部省は裁量権の範囲を逸脱したとした。
家永は『戦争責任』(岩波書店1985,pp104-107)で吉田清治の『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房、1983)の記事を4頁にわたり転載し、済州島での従軍慰安婦の強制連行の記事を掲載した。また『太平洋戦争2版』(岩波書店1986,pp198)でもやはり吉田の著書を引用して著した。秦は1992年現地調査を行い、吉田の記事が事実無根と報告した(吉田清治の項参照)。家永の「慰安婦」に関する部分がすべて吉田の『創作』の引用に過ぎないことは、日垣隆が指摘している。『上代仏教思想史研究』は(1)1942年初版(畝傍書房)、(2)1948年再版(目黒書房)、(3)1950年三版(目黒書房)、(4)1966年四版(法蔵館)の4種の版が存在する。秦は産経新聞(78/1/22)で本著に関し家永批判を著した。「『上代仏教思想史研究』は(1)の序文に『この意義深き時に当たり学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者…以て君国に報じたい』とある。しかるに(2)ではこの箇所が削除改変され、(3)(4)では復活した」これに対し家永はこう反論した。これに対して佐伯真光は「『上代仏教思想史研究』の象嵌」を著し、(1)~(4)各版を詳細に比較し、家永の旧著を引用した。つまり(2)で訂正したはずだが、(1)の紙型が残っていたため、(3)を出版する時に誤って使ってしまった訳である。それでは(4)でどうして(1)の内容が掲載されたかという疑問が生じる。昭和30年代後半から家永を変節者として攻撃する声が高まった。『津田左右吉の思想的研究』(1972岩波書店)で、家永は津田の文章が戦前と戦後とでどう改訂されたか詳細な調査をしたが、家永自身も将来他の研究者により調査されると感じていた。自身の首尾一貫性を主張するために、(2)の存在を抹殺する必要があったが、結果的に変節を証明したと、佐伯は結んでいる。大倉山論集での批判に、家永はまったく反論していない。本書に対する学術評価を列挙すると、ひろたまさきは「本書は教科書裁判闘争によって産み落とされた成果であるとともに、その裁判のための学問的な武器としてもつくられた」と評価した。兵頭高夫は「家永氏が津田の『思想史的変貌』あるいは『転向』と呼ぶものが必ずしも十分に根拠のあるものではないことが理解できよう」と述べ、西義之と田中卓も家永の論理の弱点を指摘した。木村時夫も「家永氏の今度の書物は、津田の学問的業績を日本の思想史上に位置づける学問研究ではない」と批判した。家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の1人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。通常、歴史教科書は、専門分野を異にする複数の著者によって執筆されるが、『新日本史』は、全体の照応、前後の照応や教科書著述の一貫性を貫くため、家永の単独著作で発行された。この背景には、1955年8月13日に日本民主党が発行した『うれうべき教科書の問題』があった。この小冊子では教科書の偏向(教員組合をほめたてるもの、急進的な労働運動をあおるもの、ソ連中共を礼賛するもの、マルクス・レーニン主義の平和教科書の四つに分類して具体的記述が列挙されていた)が批判されているが、教科書執筆者有志が9月に入り、「小冊子の書き方は故意に一部を抜き出し、煽動的な文章を勝手に付け加えて記述の意味を捻じ曲げ、これに政治的な中傷を加えるというやり方に終始している」と抗議を行った。執筆者のうち長洲一二や日高六郎は経過を発表した上で執筆を辞退したが、家永のみが執筆を続けたのである。なお山住は、この小冊子で取り上げられたような記述の内容を引用して例示し、「偏向という事実は存在しない」と主張することはしていない。この記述形式は波多野澄雄の著書にも見られる。教科書誤報事件も参照されたい(韓国では「『侵略を進出に書き換えた』と報じられたが、では書き換えたという教科書の現物を見せてほしい」と言われても現物がなかった、という出来事が起こっている。書き換えという事実がないので現物が存在しようがないのである)。また、家永自身も『うれうべき教科書の問題』について自著で触れているが、やはり記述の引用は行っていない。山本夏彦はコラムで家永を「いうまでもなく日支事変は侵略戦争で、ついでに日露戦争も日清戦争も侵略戦争で、それを子供たちに教えたいと、教科書中に書いて、文部省から削除を命じられたと、ながながと裁判で争っている編著者がいる」と書き、それを新聞雑誌が支持する始末であると指摘している。山本はこの態度を正義を装った偽善に過ぎないと断じ、「自分の国の悪口を書いた教科書は採用しないと却下すれば済む」と批判している。自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺、731部隊、沖縄戦などについての記述を認めず、検定基準を不当に解釈して理由をこじつけた文部省に対して、検定制度は違憲であるとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。家永は「この訴訟は・・・究極において人類の破滅を阻止するための人類史的課題を背負っている」と言い切っている。訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁にて「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。一方で、個別の検定内容については一部が不当とされ、家永側の主張が容れられた。教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだとの持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期には、記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定を否定し続けた。全集にすると50巻にもなるため、高価すぎて売れないと岩波書店は判断し、代表作のみの出版とした。文庫・新書で版を重ねた「太平洋戦争」「戦争責任」「日本文化史」は最初から除外し、家永の了解を得て16巻にまとめた。その結果、恩賜賞の対象となった『上代倭絵全史』『上代倭絵年表』、『植木枝盛研究』や『津田左右吉の思想史的研究』は収載されなかった。16巻の著作目録には、すべてタイトルが掲載されている。16巻の『一歴史学者の歩み』は2003年に文庫本化された。
出典:wikipedia
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