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フィンセント・ファン・ゴッホ

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた("出生、少年時代")。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された("グーピル商会")。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した("聖職者への志望")。以降、オランダのエッテン("1881年4月-12月")、ハーグ("1882年1月-1883年9月")、ニューネン("1883年12月-1885年11月")、ベルギーのアントウェルペン("1885年11月-1886年2月")と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主要作品である。1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている("パリ時代")。1888年2月、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した("アルル時代")。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミの精神病院に入院した。発作の合間にも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けた("サン=レミ時代")。1890年5月、精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り画作を続けたが("オーヴェル時代")、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した("死")。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている("病因")。生前に売れた絵は「赤い葡萄畑」の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった("後世")。弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる("手紙")。約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に「ひまわり」や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった("作品")。フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる「農場の家と納屋」と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ウィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。1869年7月、セント伯父の助力で、ゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはフィンセントの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのフィンセントのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたフィンセントはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、フィンセントは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にフィンセントはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。フィンセントは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった。1873年5月、彼はロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、フィンセントの娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものとも見られている。8月末からロワイエ家の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。そして、ゴッホ自身が書いている「20歳の恋」の相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。1875年5月、彼はパリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父はフィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。同年(1876年)4月、ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、フィンセントはアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていたフィンセントは、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした。ジョージ・エリオットの『牧師館物語』や『アダム・ビード』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた。その年のクリスマス、彼はエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、フィンセントは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っている。フィンセントは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語とラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった。精神的に追い詰められたゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った。1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された。フィンセントはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた。こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットに労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。伝道師としての道を絶たれたゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないフィンセントに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからフィンセントへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ウィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。1881年4月、ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員にも推薦してくれた。しかし、モーヴは次第にゴッホによそよそしい態度を取り始め、ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。同年(1882年)3月、ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ゴッホは、同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、ゴッホは今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ウィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。同年(1883年)12月5日、ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた。1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたフィンセントは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。フィンセントはテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。夏の間、ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、「ジャガイモを食べる人々」のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。同年(1885年)10月、ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。1885年11月、ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。1886年2月末、ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通りのアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはゴッホの肖像画を描いている。1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭しており、この年、印象派絵画展が第8回をもって終了した。ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリにモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(「カフェ・タンブランの女」)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、フィンセントは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタン、トゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ゴッホ兄弟と親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」、歌川広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい。同年(1887年)11月、ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(「アルルの跳ね橋」)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、外壁が黄色に塗られた2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って「ラ・ムスメ」という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、「ひまわり」を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた「夜のカフェ」を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「夜のカフェテラス」を描き上げた。9月下旬、「黄色い家」を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(「アルルの寝室」)。同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ゴッホの「赤い葡萄畑」)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリをモデルに絵を描いた(ゴッホの「アルルの女」)。ゴーギャンはゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ゴッホは2点の「種まく人」を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。同年12月23日、ゴッホが自らの耳たぶを切り落とす事件が発生した。12月30日の地方紙「ル・フォロム・レピュブリカン」は、「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼家1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、『この品を大事に取っておいてくれ』と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。」と報じている。ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せてから、パリに帰った。ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。テオは、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。担当医(インターン)のフェリクス・レーのほか、郵便夫ルーラン、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・サルがゴッホの面倒を見てくれ、テオに兄の病状を書き送っている。容態は改善に向かい、ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月7日退院して「黄色い家」に戻った。退院したゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」も完成させた。ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたとテオに書いている。しかし、2月7日、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、近所の人が警察に対応を求めたことから、病院に収容された。2月17日に仮退院したが、住民29名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出され、2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。日中付添人と外出することを許されると、絵を再開した。家主から「黄色い家」の立退きを求められたため、荷物を片付けたが、不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの精神病院に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。同年(1889年)5月8日、ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミの精神病院に入院した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。ゴッホは、病院の一室を画室として使う許可を得て、病院の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた「星月夜」を制作した。彼は、「オリーブ畑」、「星月夜」、「キヅタ」などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、フィンセントはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、「麦刈る男」、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの「ピエタ」の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの「野良仕事」の連作を模写した。ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか「石切場の入口」、「渓谷」、「病院の庭の松」、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた。1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ウィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、フィンセントが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの「ひまわり」、「果樹園」など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でゴッホの「赤い葡萄畑」が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に「渓谷」など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。体調が回復した5月、ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に「糸杉と星の見える道」を描いてから、5月16日サン=レミの精神病院を退院した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。同年(1890年)5月20日、ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらにオーヴェルの教会を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、フィンセントはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、フィンセントは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。フィンセントは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」、「ドービニーの庭」)を描き上げたことを伝えている。また、フィンセントはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しフィンセントは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。テオは、同年(1890年)8月、フィンセントの回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった。一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、フィンセントの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。ゴッホの死について、一般には自殺であると考えられているが、彼自身が経緯について語らなかった事、銃を撃った現場を目撃した者がいない事、自殺に使用した銃器(拳銃か猟銃かも判明していない)が発見されなかった事などから、正確には明らかになっていない。2011年にゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ナイフェとグレゴリー・ホワイト・スミスは、ゴッホと一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、彼を誤射してしまったが、少年達をかばうために何も語らなかったとする説を唱えた。ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている。ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える)。このうち、てんかんとする説と統合失調症とする説が最も有力である。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、アスペルガー症候群であったとする見解もある。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い。ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ゴッホに好意的なものであった。他方、ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った「赤い葡萄畑」だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。……何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった。ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した。北欧ではゴッ

出典:wikipedia

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