双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。第35代横綱。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になったただ一人父親は吹き矢を誰が吹いたか知っていたが、定次が傷つかないように、また吹き矢を吹いた者を恨むことが定次にとってマイナスになるかもしれないため、相手の名前を言わなかった、と横綱審議委員長の舟橋聖一は分析している。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円に相当する)の借金を負い、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男坊でありながらも一家の家計を支えるべく父の手伝いをしながらたくましく育つ。浪曲研究家の芝清之が作成した『双葉山物語』では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている。定次が14歳の頃、父と乗っていた船が大波を受けて転覆、龝吉父子は海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった。定次は相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなった。見物人から「押せ、押せ」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒した。しかし、相手はしばらく起き上がれなかったという。逆にこのことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事となる)の世話で立浪部屋に入門する。1927年3月場所に初土俵。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川部長の1字も含まれる。出身地である宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」の平田崇英塾長が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門の大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に競って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と親方から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、石を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった。入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時幕下以下は1場所6番)が多く大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄春日野(元横綱栃木山)や常ノ花から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「(脱退力士らは)主張はいいのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意。再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。ただ足腰は非常に強い(船に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた横綱玉錦だけは「双葉(山)の相撲はあれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。1935年1月場所には小結に昇進するが、4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に転落。5月場所も4勝7敗と負け越し、この頃までは苦労の連続だった。1935年に蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった。なお、この年に「相撲には未練はございません」と言って相撲界を辞める決心をして仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。1936年1月場所は初日の新海戦で敗れて黒星発進だったが、横綱武藏山から初金星を奪い、清水川・男女ノ川(場所後横綱)の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目全勝の玉錦との対戦を迎える。この玉錦戦は落として4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目瓊ノ浦を下すと、これから双葉山の69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗、翌場所の関脇昇進を決めた。新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることがなかった。玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、玉錦の現役死もあるが明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。1937年1月場所を11戦全勝。この場所では玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中唯一玉錦戦のなかった場所となっている。先場所初白星をあげたとはいえまだ地力では玉錦が上をいっており、玉錦にすればこの時が双葉を倒す最後のチャンスだったのではないかという見方もある。同年5月場所を13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される。玉錦、武蔵山、男女ノ川とともに1918年5月場所(鳳、2代西ノ海、大錦、栃木山)以来の史上3例目の4横綱となり、系統別総当たり制ということで初めての4横綱総当たりもあると話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。新横綱で迎えた1938年1月場所、9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉の負けを主張して納得せず、揉めに揉めた。後年、双葉の大連勝が48で止まっていたかもしれない大物言いとして語り継がれることになる。これには双葉人気への両横綱のひがみからの物言いではないかという声も当時あったが、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。続く5月場所も千秋楽、玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝、5場所連続全勝優勝を果たす。この記録を受けて協会から"古今に例がない"と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないでください」と言ったという。この時点で66連勝、谷風梶之助の63連勝を、約150年ぶりに塗り替えている。谷風の記録は分・預・休を挟み純然たる連勝記録ではなかったが(また幕下力士を相手に五人掛けを行い5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれる)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。当時の相撲ファン達の間では、双葉山の連勝がどこまで続くかという話題で大いに盛り上がっていた一方、誰が双葉山の連勝を止めるかという点にも注目が集まるようになり、「双葉よ負けるな双葉を倒せ」という相矛盾する流行語が生まれた。この当時、武蔵山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が大きく、衰えたとはいえ前の第一人者である玉錦がやはり連勝ストップの有力候補と目されたが、その玉錦がこの年の末現役のまま病没すると、100連勝まで予想する声も出始めた。1939年1月場所、前年の満州・大連の巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。しかし、力士会長の玉錦が前年に虫垂炎を悪化させて現役死した(双葉山が2代会長に就任)のと、武蔵山も休場し、不振続きで前場所負け越した男女ノ川しか横綱がいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は前頭4枚目の安藝ノ海。この取組前まで、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽海一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山を作戦本部長として毎日、双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。安藝ノ海は立合いから双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。館内は座布団だけでなく、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化した。28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方(20代)も伊之助親方(17代、のち21代庄之助)もみんな口を利かない、厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った」と回想している。この69連勝は現在まで最多連勝記録である。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。双葉山は、その日の夜に師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。その日、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。一方、安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、心ここにあらずという表情だった」という。この後安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わって支度部屋に引き上げた(現在ならインタビュールームでアナウンサーから殊勲インタビューを受け、支度部屋では大勢の記者に囲まれる)。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山に勝った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれもみくしゃにされた。そのため部屋へほんの数分で帰れる時間を1時間以上もかかってしまい、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もある。当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。連勝が69で止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい連勝記録が始まるものだろうと誰もが思っていた。しかし、翌5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の吉屋信子に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。続く1939年5月場所も危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の全勝額が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と出羽湊の各1枚)。1940年1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の五ツ嶋に叩き込みで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝。全勝でない優勝はこれが初めてだった。1940年5月場所では11日目までに4敗を喫した。病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如引退を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、福岡県筑紫郡那珂川町にある妙音の滝に27日間(24日間とも)滝行を行い、1941年1月場所で14勝1敗で8度目の優勝。なおこの場所は、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目その前田山の張り手攻勢からの吊り出しに敗れたもの。取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、一方、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子の羽黒山と結婚)一般女性と結婚したり、部屋を離れて自ら道場を開くなど、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。1941年5月場所は櫻錦と綾昇の平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが(双葉山は13勝2敗)、この翌場所から1943年5月場所までを4連覇。1942年5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、1944年1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは同場所東前頭9枚目の松ノ里)。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかしこの頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちに白鵬が2010年7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)。横綱免許を授与された当時、後援者から「『双葉山』という四股名は若い力士の名だから昇進を契機として、“3代目・梅ヶ谷藤太郎”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを固辞して最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。36連勝の止まった1944年1月場所では、その後11日目、12日目と増位山、汐ノ海の若手2人に連敗を喫し、千秋楽には照國に横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。つづく1944年5月場所は、軍部に国技館を接収され後楽園球場での開催となったが、またも照國に敗れ9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝をさらわれる。日中戦争の開戦と相前後して69連勝を達成し頭角をあらわした双葉山だったが、太平洋戦争の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。やはり後楽園球場での開催となった1944年11月場所6日目、幕下の頃から目をかけ、この場所は関脇となっていた東富士に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。翌日は増位山に不戦勝を与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。1945年3月の東京大空襲によって穴が開いた両國国技館で行われた同年6月場所は、晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開となったが、初日に新鋭小結の相模川を下したその後を全休した。この時は場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が最後となった。1945年11月場所で番付に名を残したものの引退。結果的にその引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。引退の動機のひとつとして、16尺土俵の問題があったと言われている。GHQによる占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。それでも相撲協会は土俵を4.84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べている。1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。現役中からその実績を評価され、二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年に立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を開いた。独立には鏡岩の粂川が自分の部屋をそっくり譲った。その後戦況の悪化で福岡県太宰府町に疎開。引退後に年寄・時津風を襲名して道場名を時津風部屋に改称する。先代・時津風を襲名していたのは小九紋竜梅吉だったが、小九紋竜は現役時代から悪評が高く、博打好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州馬賊になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない」「“雷”の名跡こそ双葉にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じ。悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。1946年11月6日からGHQに接収されて「メモリアルホール」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の引退相撲が行われると、この日だけは超満員だった。GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。現在のように引退相撲と断髪式を同時に行った最初の例であるとされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている。賀陽宮恒憲王、吉田茂、小笠原長生らがハサミを入れた。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座していることが判る。現役引退から1年が経過した1947年1月21日、石川県金沢市にあった新宗教「璽宇」に対して、石川県警察が食糧管理法違反の容疑で取り締まりを行った。双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心な日蓮宗の信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった呉清源に誘われた」「長岡良子の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者がマインドコントロールを行って利用したものと言われている。双葉山は金沢市で警察関係者の進入を阻止したことで、教祖の璽光尊と共に逮捕された。これを璽光尊事件という。逮捕された双葉山は、若き日の友人である朝日新聞記者の藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。大捕物だったにも関わらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかったが、これは双葉山や呉清源を、終末思想を広め信者や物資を集めようとする「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は釈放後、自身の道場に戻る。璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、1947年10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。さらに、1950年2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。1956年1月からの理事長代理を経て、1957年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が国会で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山と、後に理事長へ就任する武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。青ノ里盛の話では、現役引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。『もっと真剣に気合を入れろ』と」と振り返っている。1960年に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。1962年には相撲界で初めて紫綬褒章を受章した。相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには還暦土俵入りを期待した者もいたが、晩年は肝炎によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。1968年11月場所では優勝した大鵬に賜杯を授与したが、その直後の同年12月2日に、あたかも死に装束を模したかの様な白のスーツ姿で東京大学医学部附属病院へ再入院し、同年12月16日に劇症肝炎のため死去した。。蔵前国技館で日本相撲協会葬が挙行された。戒名は霊山院殿法篤日定大居士。没後、従四位勲三等旭日中綬章を贈答された。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに…(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している。死後、時津風部屋は元横綱鏡里の立田川が継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の錦島が14代時津風を襲名した。右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにも関わらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した花相撲においても、若瀬川を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった。斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。琉球大学で物理学を専攻した経験と、トレーニング理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の三段目力士だった一ノ矢充は、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、肩甲骨で相手を押さえて投げる。自分の身体をスパナとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく」と、その特殊な技術を分析している。横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に、左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは、遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している。双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、横綱土俵入りに関しては男女ノ川と同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率.882)と跳ね上がる。他に優勝12回(年2場所制での最多、そのうち全勝8回)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(相撲の記録が残る1757年以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には1938年に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった沖ツ海、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した豊嶌といった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれフグ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。双葉山の最多連勝記録は、史上最長の69連勝である(1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目)。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 安藝ノ海節男とは、70連勝を阻止された取組後は全勝。「同じ相手に連敗はしない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。他にも玉錦とは6連敗の後に4連勝、武藏山とは4敗1分の後に2連勝、男女ノ川とは5連敗の後に10連勝、清水川とは1勝4敗の後に4連勝。双葉山よりも先に大関・横綱へ昇進していた力士でも、双葉山の横綱昇進後は全く歯が立たなくなった。
出典:wikipedia
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