慰安所(いあんじょ)とは、本来苦役に従事する人たちの為の福利厚生の為に設置された、飲食、娯楽、遊興などで慰安を供する為の施設(慰安施設)のことである。従って、食堂やカフェや酒場等の飲食施設、遊戯設備(ゲーム器)等を備えた施設、舞台や音楽鑑賞やダンスの出来る施設などがあり、軍慰問団は軍用慰安施設のホールや部隊などを利用して将兵の慰問を行った。軍慰安所・軍隊慰安所ともいい、一般には軍隊や政府組織が軍人や軍属のために設置あるいは指定した売春宿のことを指す。。日本軍政が制度化した軍公認の軍利用・軍専用売春宿の呼称が「特殊慰安所(慰安所)」である。フランスの軍用売春宿計画は「キャンディボックス(la boîte à bonbons)」などと婉曲表現された。韓国で設置された国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town 기지촌 Kijichon)」と呼ばれた。また、ベトナム戦争時、韓国軍が韓国兵専用としてサイゴンに設立した慰安所は「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と呼ばれた。国家による管理売春を公娼制度という。公娼制は古代ギリシアやローマ帝国にもすでに存在した。十字軍遠征では「売春婦部隊。」・「従軍売春婦」が従軍した。古代中国にも妓女制度などが存在し、また被征服者の女性が強制連行され性奴隷になるケースも多く、金王朝に破れた北宋の美女は洗衣院という場所に収容された。また朝鮮にも妓生制度があり歌舞のほか性的奉仕も担った。妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した。また妓生は中国に貢女(コンニョ)つまり貢ぎ物として「輸出」された。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。これは日本人(倭人)に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている。朝鮮の外交における使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」といわれる。16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている。近代公娼制はフランスで確立し、その後、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国、日本に導入された。藤目ゆきによれば、近代公娼制度は「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」である。藤目はフランスを「公娼制度の祖国」と評している。秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは、軍隊に付いてくる売春婦と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした。1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている。19世紀初頭の1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった。16世紀に梅毒が流行したが18世紀末にも梅毒流行が再燃し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがった。フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった。「移動慰安所」は、フランス語で、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在した。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ、ほかアルジェリア、チュニジアにも存在した。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している。イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された。19世紀のイギリス海軍では、船が入港すると、売春婦を船内に呼び入れるのが一般的な慣習だった。イギリスの港町ではで女性を軍艦に運び、の船長が代金を受け取った。そんな中で性病に対する懸念が高まり、1864年制定の法律により、指定された11の港町の売春婦が陸軍省と海軍省の管理下に置かれた。やがて医師による定期的な検診が義務付けられるようになり、売春婦は登録制となる。その後、陸海軍が常駐する町以外にも法律を適用させようという動きもあったが、実現しなかった。開戦当初のイギリス政府の方針は、医学的管理下にある売春宿での買春の容認であった。終戦近くになると、兵士に対する性教育と同時に、兵士たちが匿名で治療薬(消毒剤)を使用出来るようにした。当局によって調査済み売春宿は特例とされた。第二次世界大戦中は軍公認の慰安所は置かず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1870年代になってジョセフィン・バトラーらの売春婦救済運動(廃娼運動)が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦、ヒックス、藤目ゆき)。イギリスは1921年の婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった。秦郁彦も、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している。植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している。1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登録簿は1888年まで記録されている。ドイツ軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あった。ドイツ政府は「人道に対する罪に時効はない」と宣言し、様々な戦後補償を行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった。しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった。また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『諸君!』で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損 ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った。ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿 (Bordell) は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった。ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止し、民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置いた。なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる。2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春 (Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。強制収容所での囚人用売春施設についてはオイゲン・コゴンの『親衛隊国家』、ヘルマン・ラングバインの『アウシュヴィッツの人間』でも知られていたが、戦後英雄視された政治犯も当時囚人であったためタブー視され研究されることがなかったが、2009年にロベルト・ゾンマー(Robert Sommer)が『Das KZ-Bordell:Sexuelle Zwangsarbeit in nationalsozialistischen. (強制収容所の売春施設:ナチス強制収容所での性的強制労働』(Paderborn)を発表した。ゾンマーによれば、この強制売春施設はハインリッヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想された。ゲシュタポは1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設した。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった。被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった。食料は親衛隊員待遇で豊富であった。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた。ロシアでは、第一次世界大戦の頃から、軍用売春宿(慰安所)の導入が検討されていた。ロシア帝国とロシア臨時政府がそれぞれ別個に各々の陸軍の為に検討していた。モデルとなったのは、当時のドイツ軍の軍用売春宿(慰安所)であった。ボリシェビキも同様の検討を行っていた。ロシア軍はブルシーロフ攻勢後ドイツ軍の慰安所を複数個所手に入れ、コサック兵たちの利用が黙認されていた。戦争が塹壕戦に入ると、前線のあちこちに売春宿が乱立するようになり、ロシア臨時政府はこれらの合法化を考えた。臨時政府の外務大臣であったパーヴェル・ミリュコーフによれば、目的は兵士のモラルの向上と、臨時政府に対する不満の捌け口となるはずだった。彼の提案は陽の目を見なかったが、に引き継がれ、1917年、は、兵士達の住民に対する暴力の抑止になると期待して再検討に着手した。しかし、この計画も内戦の勃発により実現しなかった。アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入され、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた。しかし、同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からは純潔十字軍が社会浄化運動を行い、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした。またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し、さらに中国人娼婦を口実に1882年に中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された。1910年のマン法では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯(売買春)地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった。アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した。米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した。当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持しており、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていたため、植民地での売春宿・慰安所についての反対運動は後退した。こうしたことを背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランも推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない。米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した。日本政府によれば、慰安所の開設は軍の要請により、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置された。設置地域は日本・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(当時)・タイ・ビルマ(当時)・ニューギニア(当時)・香港・マカオ・仏領インドシナ(当時)。慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与したと考えられている。90年代に入り、韓国挺身隊問題対策協議会や日本弁護士連合会の戸塚悦朗が国連に日本軍性奴隷問題として問題提起してから国際的に注目され、国連人権委員会に「強姦所」として報告されていた時期もある(マクドゥーガル報告書)。2009年になると、欧米の研究者の間からも、慰安婦は当時の公娼と変わらず、慰安所を強姦所などと呼ぶ事に反対する意見が出てきた。研究者の間では、日本軍の慰安所を、当時の遊里(遊郭)と変わらないという見解(秦郁彦ら)と、奴隷状態に置かれた慰安婦が強制的に売春させられていたという見解(吉見義明ら)がある。韓国政府は、ウェブサイト上で、日本軍の慰安所を、女性が強引に閉じ込められ性的に搾取された場所と解説し、ここで慰安婦は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けたとしている。当時日本軍のための売春施設を「特殊慰安所」、従事する公娼を「特殊慰安婦」と称した。その他の名称として商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎の記憶では、1939年、「漢口特殊慰安所」という看板が掲げられていたという。日本から海外へ渡航した娼婦の前身の呼び名としては、料理店の酌婦、また娘子軍(からゆきさん)という言い方もあった。1998年、国連人権委員会に取り上げられた「マクドゥーガル報告書」では日本軍の慰安所を「rape center(強姦所)」としているが、この報告書の事実認識を含め「アジア女性基金」ではこれを批判している。「慰安所」や「慰安」という用語の日本軍以外の使用例は、太平洋戦争後の米占領軍相手に強姦事件を防ぐ目的で設立された公的な売春施設である「特殊慰安施設協会」、朝鮮戦争における韓国の「慰安所」、戦時中に朝鮮労働者向けに企業が設置した「産業慰安所」などがある。中国でイギリスとフランスが公娼制を行っていたので娼婦が集まったが、上海の租界では、1930年の統計で、中国人2万人余り、朝鮮人千人余り、日本人7百人余りで、そのほとんどが私娼である。日本では、1920年に海外への日本人娼婦である「からゆきさん」を廃止。朝鮮では、1920年代に年間3万人の私娼が朝鮮で売り買いされ、1920年代半ばには外国に売られたの人が年間5000人、8割が騙されてだという。1930年頃の朝鮮内の公娼は、日本人と朝鮮人それぞれ4、5千人程度とされる。1937年、日本内地では、芸妓を含めて21万人とされる。当時の公文書から以下の設置理由が考えられている。1932年、第一次上海事変が起きる。。この時期は民間の経営による民間客と兼用の慰安所・風俗売春店が多く、長崎の女性達がだまされ帰りの旅費がないためにそのまま就業したという事件も起きている。1937年7月29日に発生した通州事件では冀東防共自治政府保安隊によって日本人約260名が虐殺された際、多数の女性が強姦殺害され、陰部にほうきを刺された女性の遺体もあった。1937年10月6日、当時の中国には紅槍会という地方農民の自衛団があり「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち死を持って報復せるを常しあり」と、各方面軍から通達が回っている。1938年、慰安所の数が増え、管理体制が決められ、それまで個々の軍がやっていたことを兵站の一部として設定される。このときの慰安婦の募集では、地方警察に無連絡であり、日本国内法の常識から大きくはずれる点が多く、誘拐と疑わしいトラブルが、警察との間に生じた。日本では公娼が廃止の方向に向かっていたこと、「からゆき」といわれる主に南方の海外娼婦を廃止させた(1920年)政策も背景と見られている。1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取扱に関する件」と題する通達では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解していると言って回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、社会問題が起きないよう広告を禁じている。これを受けた3月には、陸軍省から華中派遣軍に対して、業者による募集が誘拐に類するものなどが少なくないなどの懸念を通知し、軍の威信保持、ならびに社会問題上遺漏なきようにとの指示が出されている。1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった。当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、民間業者による軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた。兵団とともに移動することも多く、辺境での末端部隊では、独自に慰安所を設置したり、巡回慰安婦という形も生じた。1941年の太平洋戦争開始に伴い慰安所は太平洋地域へも拡大したと考えられている。太平洋戦争期の全ての戦地(満州を除く)での性病の罹患率は、100万以上の陸軍兵士・軍属に対し年間約1.2万人で、終戦時の連合軍の調査では南西太平洋地域では日本軍の罹患率はきわめて低いとしている。軍慰安所従業婦等募集に関する件によれば、民間業者による甘言、就業詐欺も少なくなかったと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による強制連行との証言が多い。朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが暴力的な強制連行との証言も報告されている。十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在する。日本軍の慰安所は、軍隊や政府組織が軍人や軍属のために民間業者に設立させ、軍政が経営を監督及び監査した。慰安所は、民間業者が慰安婦を募集し経営も行っていたが、開設には旧日本軍の許可が必要で、施設の整備・慰安所規定の作成、悪質業者の取り締まりや衛生管理も旧日本軍が行っていた。女性の世話は民間の日本人や朝鮮人女性が行った。軍が直接経営すると、軍律違反で慰安所は閉鎖、関与した将兵や責任者は軍法会議行きだった。一方で、軍は駐屯もしくは駐留地周辺市街地の戦況と次第により、慰安業者による安全な施設確保が困難と判断される際には、基地の敷地内に施設開設に必要な筐体を用意して業者にテナント提供することはあった。戦地では、将兵の軍用もしくは軍専用以外の慰安所の利用は認められていなかった。1943年のマンダレー(中部ビルマ)の慰安所規定では、違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながると警告されている。政府は河野談話で慰安所の設置に軍が関与していたことを公式に認め、政府の調査報告書にも明記された。しかし、河野談話については政府調査結果と談話内容に整合性がない、韓国政府の事前関与があったことなどの問題点が指摘されている。(河野談話を参照)特殊慰安婦と将兵の公衆衛生面での安全は軍政の管轄化で管理保護され、軍医がこれにあたった。営業に付いての管理監督も軍政下に置かれ、主計局が兵站部を通して監査した。中央大学教授吉見義明は、警察資料、拓務省・内務省の資料の一部、従軍日誌や軍の業務日誌類、法務省・外務省の戦犯裁判資料、厚生省の復員・援護関係資料などが非公開なので事実究明に制約があると主張している。吉見義明は軍の関与について以下の例を挙げている。ただし、歴史学者の秦郁彦は、軍の関与については当初から研究者の間でも異論はなく、映画などのたぐいも多く軍が関与していないと思う人の方が珍しかったろうとし、政府が「国としての関与を認めてこなかった」と報じた1992年1月11日の朝日新聞の報道を批判している。第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本で内務省によって米国占領軍のために特殊慰安施設協会が東京都京橋区銀座七の一(現在の中央区銀座南部)に設立され、日本各地に慰安所が設置された。朝鮮戦争時の韓国軍やアメリカ軍などが戦地・占領地・訓練地で軍隊慰安所を設置・利用したという研究がなされている。韓国・慶南大学校客員教授の金貴玉によると、韓国の公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」との記述があり、旧日本軍に関係した韓国軍の幹部によって設置されていたと考えられると言う。1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される。ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された。江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された。慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した。1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている。また、朝鮮戦争後も継続して1980年代まで米兵相手の慰安所が韓国軍によって設置されていたという元慰安婦の訴えがある。ベトナム戦争においても「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と称する、韓国軍による韓国兵専用の慰安所がサイゴンに存在していた。近年でも、韓国の在韓米軍基地周辺でフィリピン人女性などの外国人娼婦がジューシーバーなどで売春をおこなっており、現在進行中の人身売買であると米軍も通告するなど注意勧告を行っているが、問題解決にはいたっていない(在韓米軍慰安婦問題)。正式名「軍中特約茶店」。「軍中楽園」「831」とも呼ばれる。1950年代より営業開始。台湾本島では1974年に廃止。金門島では1990年代の初めまで存在した。軍妓(慰安婦)の中には、意に反して働いていた女性や、未成年者も含まれていたと言われる。
出典:wikipedia
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