瓜生島(うりゅうじま)は、大分県の別府湾に位置していたが、安土桃山時代に1日にして沈んだとされている島である。別名、沖の浜(おきのはま)。伝説や昔話を基にすると、瓜生島は大分市から400-500m沖の別府湾内にあり、島の周囲は約112km、人口約5千人と推定されている。伝承によれば、島にあった恵美須像の顔を不心得者が赤く塗った為、祟りで島が沈んだとされる。瓜生島という名称が最初に使われたと言われるのが、1699年の戸倉貞則『豊府聞書』である。同書及びその写本または異本とされる『豊府紀聞』によれば、瓜生島は1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)の地震(慶長豊後地震)によって沈んだとされている。この地震については、ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及している。この地震は実際に起きたものである事が現在迄の研究で判明しており、震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものと推測されている。沖の浜については、寛永13年(1636年)ごろに成立したとみられる『徒然草嫌(もどき)評判』に、南海にあった沈島「万里が瀬」の記述のあとに「日本にも秀吉公いまだ御存生なるうちに、豊後沖の浜といへる海津、にはかに沈海と成て数百人死ける。遥なる岡に有ける楠の大木、沖に成て、近年まで潮の干ける時には木末見えし」という記述がある。現在、大分市勢家町には「瓜生山威徳寺」という寺院が存在するが、『豊後国志』によればこの寺院は大友氏19代当主大友義長の弟大友義正が永正10年(1513年)に瓜生島に開いたもので、沈没後に現在地に再建されたものと伝えられる。実在したかどうかについては諸説あり、島があったとされる場所は湾の最深位置であるとして存在を否定する説、島ではなく半島だったのではないかとする説、別府市または大分市にあたる位置にあった村だったとする説など、研究者によって見解が分かれている。また、村だったとする説のひとつとして、実在した沖の浜という港町が地震で海没し、後世に瓜生島という別名が付けられたとする説もある。別府湾内には、瓜生島の隣に久光島という島があって、瓜生島と共に沈んだとされる。また、日本国内では、高麗島(長崎県五島列島)や万里ヶ島(鹿児島県甑島列島)に関して、瓜生島とほとんど同じ沈没伝説が伝わっている。一夜にして沈んだ共通点を持つことから、日本のアトランティスと称されることもある。
出典:wikipedia
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