『てなもんや三度笠』(てなもんやさんどがさ)は、1962年(昭和37年)5月6日から1968年(昭和43年)3月31日まで朝日放送(ABC)制作・TBS系列で放送されたテレビコメディ番組。全309回放送。殆どの時期が白黒放送だが、末期の1967年(昭和42年)12月7日の第294話からはカラー放送になった。放送時間は、毎週日曜日18:00 - 18:30(JST)。提供スポンサーは菓子メーカーの前田製菓一社提供。ABCホールでの公開放送形式による、時代劇風コメディ。番組初期の時代には録画したビデオテープを編集する技術がまだ確立していなかったため、生放送風の撮って出し収録であった(2日前の金曜日昼12:15 - 12:45に収録)が、末期の1968年(昭和43年)にはABCセンターからのスタジオ収録放送(昼収録は変わらずだったが、収録曜日が変動になった)となった。スタジオに組まれたセットの中で、スピーディーに展開する物語を生本番でミスなく演じる出演者と、それを支えるスタッフの姿はまさに職人芸と言えるものであったと語り継がれている。1967年(昭和42年)3月19日放送、第255話「上野の戦争」の官軍と彰義隊の砲撃戦シーンでは2トンの火薬が使用されており、カメラが衝撃で何度もブレている。商品名とかけた「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」や、「非ッ常にキビシ〜ッ!!」、「許して…チョーダイ!!」などの流行語も生み出した。その後も、1971年(昭和46年)まで続編2作品(『てなもんや一本槍』、『てなもんや二刀流』)と、同じキャストによる現代劇コメディー『スコッチョ大旅行』が製作された。ただし、これら3作品に演出の澤田隆治は関与しておらず、脚本の香川登志緒のみの続投となった。更にスポンサーの前田製菓も、本作終了と共にスポンサーを降板している(詳細は下述、「番組の終了」参照の事)。※この他、星十郎、岸田一夫、大村崑、高橋元太郎、榎本健一、世志凡太、花菱アチャコ、中田ダイマル・ラケット、コント55号、チャンバラトリオ、漫画トリオ、ザ・ドリフターズ、かしまし娘、清川虹子等、東西の人気スターが毎回ゲスト出演した。作詞:香川登志緒 作曲:林伊佐緒 歌:藤田まこと最高視聴率としては、関西で60%台、関東でも40%台を記録した人気番組であった。番組開始当初は時間帯的不利(当時、日曜は外出していてテレビを観ないという風潮があった)なこともあり「せめて東海道五十三次を走破できる53回まで出来れば」と、1年も持てば儲けものと考えられていた。当初の視聴率は10%いかないこともあったものの、徐々に上がっていった。(TBS系列:無印=同時ネット、★=遅れネット)作局のABCは当時TBS系列だったが、その後MBSとのネット交換により、テレビ朝日系列(当時は、NETテレビ系列)にネットチェンジしていることから、テレビ朝日が開局30周年記念番組の中で、ABCがTBS系列時代に制作した過去の番組として紹介したことがあった。その中でMBSとのネット交換や『ヤングおー!おー!』が当初NETで放送されていたことについても併せて説明されたが、映像はNET系時代のものが現存していないため、TBS系移行後のものを使用していた。一方のTBSでも開局60周年特番の中で当番組を紹介した際、進行役の安住紳一郎アナから当番組放送時の大阪でのTBS系列局は1975年までABCで、その後MBSが系列局になる旨の補足説明があった。「中仙道編」継続中の1964年12月31日(木曜)には、『第15回NHK紅白歌合戦』の対抗番組として、唯一のスペシャル版『唄と笑いの総決算 特別ワイドコメディー てなもんや三度笠 東海道超特急シリーズ』を、22:00 - 23:45で放送した。番組は3パートからなり、第1部は「花の京洛」、第2部は「尾張の月」、第3部は「雪の大江戸」という構成。そして第1部と第3部は通常版と同じABCホールからの収録だったが、第2部はABCスタジオからの収録だった。出演者は本編の藤田・白木・香山をはじめ、月形半平太役に高田浩吉、清水次郎長役に鶴田浩二、その他、村田英雄・島倉千代子・長門勇・茶川一郎・天野新二・平参平・桜京美・高田夕起夫・天知茂・北原謙二・芦屋雁之助・芦屋小雁・高石かつ枝・人見きよし・藤純子・堺駿二と、豪華なメンバーが揃っている。同じ澤田と香川のコンビで制作され、日曜昼に放送されていた『スチャラカ社員』と共に絶頂を誇った当番組は、2人の対立がきっかけで転機を迎えることになる。1966年(昭和41年)に朝日放送本社が大阪・中之島の新朝日ビルディングから国鉄大阪駅北側の大淀に新設されたABCセンターへ移転し、やはり公開収録されていた『スチャラカ』の客層が様変わりする。澤田は、時代の流れに合わせたギャグを導入するように香川に求める。しかしこれは香川が目指していた喜劇のスタイルと相反し、受け入れられるものではなかった。香川は「視聴率優先でギャグを作れなんて自分には無理。もうこれ以上書けまへん」と匙を投げ、1967年(昭和42年)4月30日、『スチャラカ』は6年余り続いた歴史の幕を閉じる。こうして2人の共同作業は当番組だけとなるが、1年間で3回のシリーズ変更をする。視聴率第一主義の澤田と、出演者の特性を理解したギャグを書き続けたかった香川の路線対立が『スチャラカ』だけでなく当番組にも飛び火した形となる。2人はほぼケンカ別れの状態となり、ABCは澤田を『てなもんや』から外すべく、1968年(昭和43年)3月29日の放送を持って終了とし、全面リニューアルをかける。当時、ABCと専属契約をしていた香川は後継となった『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』そして『スコッチョ大旅行』まで約3年間、この時間に放送されたコメディ番組の脚本を引き続き担当したが、スポンサーの前田製菓は当番組の終了と同時に降板、『一本槍』以降は藤田の発する決め台詞も変わりさらにイメージを落とす。視聴率と重要スポンサーを同時に失う原因を作ったとして澤田はABC社内で「戦犯扱い」を受け、『ABC上方落語をきく会』事務局担当へ左遷。ディレクターの職務からも外され、後の「社籍を残したままでの『東阪企画』設立」への伏線を作る結果となった。2008年(平成20年)2月15日 NHK大阪放送局(関西ローカル)で放送された『かんさい特集 きよしとよしみの浪速ナイトショー』の中で藤田と白木が数年ぶりに競演を果たし、藤田は「2008年の目標で、もう一度『てなもんや三度笠』をやりたい」とコメントをした。藤田は後年、前田製菓のセサミハイチのラジオCMに出演し「当たり前田のセサミハイチ。最近は、これですわー」と言っている。本番組のパロディである。そのパロディはすでに当番組の放送中に行っていた。一つは、よみうりテレビ制作・日本テレビ系列の上方コメディ『俺はすけてん』(1964年放送。主演:人見きよし)で、第1回目に藤田が小坊主の「鈍念」、白木が「くずかけの時次郎」と、お互いの役柄を交換して出演した。二つ目は、同局放送のバラエティ『マイ・チャンネル!』(1967年放送)で、第1回目のゲストの藤田が当番組のパロディをやっていた。「藤田まことさんをしのぶ会」にて当時のVTRが放映されたが、黒柳徹子は当時生放送の裏番組(NHK)に出演しており、「てなもんや三度笠を一度も見たことがなかったせいで『当たり前田のクラッカー』に爆笑をしてしまった」と語っている。当時はビデオテープが高価だったことなどから映像が残っていない場合がほとんどで、この番組も例外ではない。しかし演出の澤田が、当時登場したばかりで高価だった家庭用VTRを個人で購入し、最後の1年程の分を録画した。ただ再生不能なテープも多く、再生可能の数十本のみが、VHS・DVDでリリースされている。また澤田の録画分とは別に、キネコで録画された第218話「奥入瀬の襲撃」(1966年7月3日放送)も残っており、コナミから発売されたビデオにのみ収録されていた。なお放送ライブラリーではこの第218話のほか、『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』が各1本収蔵されており、視聴することができる。水島新司、山根赤鬼、石井いさみ、藤木てるみにより漫画化されている。
出典:wikipedia
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