岡本 篤志(おかもと あつし、1981年5月20日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。シーズン限りで現役を引退した。大阪府茨木市で出生。小学校5年生の時に、三重県名張市へ転居した。三重・海星高校の2年生だったには、140km/hを超える速球を武器に、エースとして第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。翌の第71回選抜高等学校野球大会では、チームを準々決勝進出に導いた。3季連続で阪神甲子園球場での全国大会出場を目指した夏の三重県大会でも決勝に進んだが、3点リードの9裏に4点を失ってサヨナラ負けを喫した。NPB球団のスカウトから入団を誘われていたが、体力に自信がなかったことから、プロ志望届を日本学生野球協会へ提出せずに明治大学へ進学。進学後は、東京六大学のリーグ戦通算で、48試合登板、12勝8敗、防御率2.41、161奪三振という成績を残した。2003年のNPBドラフト会議で、西武ライオンズから6位で指名。契約金6,000万円、年俸1,000万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は28。には、一軍公式戦10試合で1勝1敗をマーク。しかし、通算28イニングで15四球・5死球を出すなど制球難を露呈したほか、防御率が9.32に達した。には、オープン戦で好投したことから、一軍先発陣の一角を担うことを期待された。4月1日には、開幕6戦目の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に先発。新球団・楽天の本拠地であるフルキャストスタジアム宮城のこけら落としに当たる試合でもあったが、右肘の痛みを隠しながら登板する羽目になった。その影響で、1回裏に先頭打者・礒部公一から球団創設第1号の本塁打を許したことを皮切りに、連打を浴びて早々に降板。結局、敗戦投手になった。シーズン通算では一軍公式戦3試合に登板したが、先発登板は前述の1試合のみで、防御率は20.25と前年より悪化した。には一軍公式戦6試合、には2試合に登板。いずれも勝敗は付かず、2007年に3死球を記録するなど、制球難を克服できなかった。には、一軍公式戦14試合で0勝2敗、防御率5.51を記録。しかし、シーズン終了後に股関節の疲労骨折が判明した。このため、には患部のリハビリに専念。プロ入り後初めて、一軍公式戦への登板機会がなかった。には、二軍で好投を続けると、7月に一軍へ昇格。7月7日の対オリックス・バファローズ戦で、自身6年振りの一軍戦勝利を挙げた。昇格当初は、先発投手が早い回でマウンドを降りた場面からの登板を中心に、ロングリリーフで好投。一軍監督・渡辺久信監督の信頼を得たことから、夏場以降は、長田秀一郎・藤田太陽・ブライアン・シコースキーに次ぐ4番手の中継ぎ投手として要所でも起用された。長田・藤田が交互に戦線を離脱した期間には、2人に代わってセットアッパーとして登板。9月15日の対オリックス・バファローズ23回戦(スカイマークスタジアム)では、9回裏1死からの救援登板で2/3回を無失点に抑えたことによって、一軍公式戦での初セーブを記録した。さらに、チームのレギュラーシーズン2位によって進出したクライマックスシリーズでも、2試合の登板で無失点に抑えたが、シリーズ終了後に股関節の疲労骨折の再発が判明した。には、プロ入り後初めて、公式戦の開幕を一軍で迎えた。再発した股関節の骨折が完治していなかったものの、長田・藤田・シコースキーが相次いで戦線を離脱したことから、クローザーに起用。6月頃に不調へ転じると、クローザーを新人の牧田和久に明け渡す格好で、出場選手登録を抹消された。8月の再登録以降は、前の投手が作ったピンチを切り抜ける役回りや、ミンチェ・牧田につなぐセットアッパーとして活躍。8月10日からの救援登板26試合で、1失点、防御率0.28、12ホールドポイントという好成績を残すとともに、チームの逆転クライマックスシリーズ出場に大きく貢献した。なお、レギュラーシーズンで挙げた5勝は、いずれも9月以降の救援登板で記録。11月13日には、背番号を22に変更さすることが球団から発表された。には、公式戦の開幕から、松永浩典と共に一軍の中継ぎ要員として奮闘。シーズン中盤に出場選手登録を抹消されたが、再登録後は、長田、ランディ・ウィリアムス、涌井秀章といった救援陣のフォローに回った。一軍公式戦での通算防御率は過去2年より悪化したものの、登板数は自己最多の59試合にのぼった。にも、公式戦の開幕から一軍に帯同。先発投手陣が好調だった影響で、公式戦に半月ほど登板できず、シーズンの序盤で出場選手登録を抹消された。結局、シーズン終盤まで一軍に復帰できず、一軍公式戦での登板数は20試合にとどまった。チームはレギュラーシーズン2位でクライマックスシリーズへの進出を果たしたものの、岡本自身はシリーズの登録選手から外れた。には、公式戦の開幕を一軍で迎えながら、4月下旬に出場選手登録を抹消。7月上旬に再び登録された。同月には、登録期間中のチーム16試合中、11試合登板で防御率0.79をマーク。8月にも、チーム26試合中15試合の登板で防御率2.25を記録するなど、武隈祥太と共に中継ぎ投手として活躍した。シーズン通算では、一軍公式戦42試合に登板。1勝1敗11ホールド、防御率2.75という成績を残した。には、公式戦の開幕直後に、一軍公式戦での救援登板で無失点を続けた。シーズン全体では、23試合の登板で、1勝0敗5ホールド、防御率3.05を記録した。には、7月中旬にシーズン初の一軍昇格を果たしたが、公式戦3試合に登板しただけで出場選手登録を抹消された。9月27日にこの年限りでの現役引退を表明すると、翌9月28日には一軍登録され、試合前に引退会見を開いた。同日、チームのシーズン最終戦であった対北海道日本ハムファイターズ戦(西武プリンスドーム)の7回裏に、「打者1人」という条件で救援登板。日本ハムのパシフィック・リーグ優勝がかかった試合で、1点ビハインドからの登板にもかかわらず、大野奨太からの空振り三振によって13年間の現役生活を締めくくった。平均球速約143km/h、最速151km/hのストレートとチェンジアップを武器とした強気のピッチングが持ち味。変化球は、他にスライダー・フォーク・シュートなどを投げる。二軍で2005年は13試合で防御率4.92、2006年は16試合で4.10、2007年は先発・中継ぎ両方で起用され25試合で5.93と、不安定な投球が続いており、2009年以外は毎年期待をかけられて一軍に昇格していたが、制球に難がある上に決め球がなく、2010年まで一軍に定着することは出来ていなかった。2013年、自身の誕生日である5月20日に2010年から交際していた女性と結婚した。
出典:wikipedia
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